「好き」の違いはどこで、何で決めるのか?――映画「花蓮の夏」の感想
台湾映画「花蓮の夏」を初めて見たのは2017年。感情が氾濫しそうだったのですが、公開から10年たっていたこともあり誰かと語り合うこともできず、ひとりで悶々としていた記憶があります。作品から感じた心地のよい靄、まとわりつくような苦しさは記憶の底に埋もれず、わたしの中に色濃く残っていました。
余韻を時々思い出しては噛み締め、そのまま月日が流れ迎えた今年10月初旬。ひょんなことからタイトルを検索したところ、4K修復版が上映されるというビッグニュースが目に飛び込んできました。
こんな偶然ある!?
驚きと興奮とで胸を弾ませながらすぐにチケットを取り、翌日劇場へ足を運びました。
初めて見たときとは自分もさまざまなことが変化し、それに合わせるかのように物語の見え方も変わった感覚がありました。
以下、ネタバレを含む感想を記します。
―――――
7年前と今とで捉え方が全く変わったのが、終盤のショウヘンとジェンシンが肌を合わせるシーンと、そこに至ったショウヘンの感情への自分のまなざしです。
7年前はホイジャと付き合っているショウヘンがジェンシンを抱いたことが、すごく自分勝手な行為に思えたんです。ショウヘンの気持ちもわからなかった。
ホイジャのことは大事だし別れたくない。でも、自分に恋愛感情を寄せる大事な幼なじみのジェンシンを失いたくもない。
自分の「今」を守るためジェンシンを繋ぎとめたかっただけに思えて、腹立たしさすら感じました。ジェンシンのことはもちろん、ホイジャのことも傷つけます。それに、一晩だけなら応じる、と伝えているようにも思えてつらかったです。優しさでもなんでもない。
ですが、先日あらためて鑑賞したとき思ったんです。
ショウヘンは自分の感情がわからず、揺らいでいたのではないかと。
そう思ったのにはふたつの理由があります。
まずは当時の恋愛に関する「当たり前」。
作中の舞台はおそらく2000年代前半。今でこそ台湾は同性婚が法制化されていますが、当時はまだ同性に想いを寄せるという可能性が選択肢にあまり入ってきていなかったんじゃないかと思います。
同性を好きになり、好きになったら付き合いたいと思うし、キスやセックスをしたいと思うのが当然。世の中の当たり前。それらの価値観が一般化されているのは、教育やドラマ、アニメ、マンガなどの創作物によるところが大きいと思います。裏を返せば、同性を好きになる人がいることは教えられてこなかったし、創作物で描かれてこなかった。あくまでこの部分は日本での感覚になりますが、台湾の当時の状況もそれほど遠くなかったのでは、と推測しています。(台湾で初めてLGBTプライドパレードが行われたのは2003年で、参加者は2000人だったそうです)
だから、ジェンシンが自分に恋愛感情を向けていると気づいたとき、ショウヘンは混乱したんじゃないかと思うんです。嫌悪とかではなく、純粋な混乱。彼の中にジェンシンと恋愛感情を結ぶという選択肢がなかったから。
もうひとつが、ショウヘンにとってジェンシンが「特別」であること。
ショウヘンにとってジェンシンはただの幼なじみではないじゃないですか。多動症と診断され、小学校のクラスで孤立していたショウヘンにとって唯一の友達。「お前は俺の親友だ」と認めた相手なわけです。
ジェンシンが友達になってくれたのは先生の命令に従っていただけだったとしても、ひとりじゃないことの安心感は相当なものだったと想像できます。学校にいる間はクラスという小さなコミュニティーで過ごさざるを得ない上、その時間が生活の半分を占める小学生のときならなおさら。広い海で漂流していたときに小さな島を見つけた、そんな気持ちでしょうか。彼自身、ジェンシンと肌を合わせた翌朝、ホイジャに対して孤独に対する恐怖感を語っていました。
ショウヘンにとってジェンシンは、人生の恩人といっても過言ではありません。
そんな相手が自分に対し恋愛感情を持っていると察したら、拒否より先に混乱や戸惑いがくるだろうな、と今のわたしは想像しました。
そして、拒否ではなく混乱や戸惑いが先にきたから、彼はジェンシンを抱くことを選んだのではないかと思ったんです。性的な接触が「できない」ではなく、「できるかわからない」だった。
おそらくショウヘンは異性愛者として生きてきたし、作中でもそう生きている。ホイジャと交際開始条件を確認したときもキスしていましたし、付き合い始めてからはおそらく体の関係も持っていると考えられます。好きになったら付き合うし、付き合えばキスやセックスをするという世の中の当たり前に従って生きてきた人です。
ショウヘンにとってホイジャは愛しい人で、ジェンシンはかけがえのない人。どちらも比べられないほど失いたくない、大事な人。大きく分ければ「好きな人」。
ホイジャは自分に恋愛感情を向けている。そして、ジェンシンも自分に恋愛感情を持っている。
自分にとって大事な人たちが、恋愛感情を自分に向けている。ホイジャのことは好きだし、性的な触れ合いをしたこともある。感情と行為がつながっているから恋愛感情だとわかる。
じゃあ、ジェンシンは?
ホイジャへの「好き」とジェンシンへの「好き」は何がどう違うんだろう。
クラブでの一件があった夜、ショウヘンはこんなことを考えたのではないかと思っています。ひとりでバイクを走らせながら、事故に遭い迎えに来て代わりにバイクを運転してくれるジェンシンの背中の温度を感じながら、彼に対する感情を紐解こうとしていたんじゃないでしょうか。
そして、考えるだけではわからず、できるかわからないなら……、と組み敷いたんじゃないかなと、2024年のわたしは思いました。
ベッドに組み敷かれたジェンシンは最初戸惑って抵抗していたし、何も言わずにキスをしてセックスに持ち込んだ時点で傷つけていることには変わりません。ジェンシンにはショウヘンの混乱も戸惑いも、きっと何一つ伝わっていない。繋ぎとめるため、もしくは気まぐれのセックスだったと思っているかもしれません。キスをしている途中あたりで受け入れていたようには見えたので、行為自体は合意の上と言っても差し支えないと思いますが、状況が心を傷つけたことには変わりないです。ジェンシンの気持ちを考えると、やっぱりつらい。何もなかった幼なじみ、友達にはもう戻れないから。
だけど「どちらも失いたくない」と思うショウヘンの揺らぎや葛藤のようなものが2024年のわたしには感じられて、責める気持ちが起きなくなりました。責めないのがいい悪いということではなく、ただ、人生のままならなさを感じるようになったといいますか……。もちろん、体じゃなくて言葉で解決したらよかったのに、とは思います。お互いあまりに言葉が不足していました。関係がどうなったかはわかりませんし多かれ少なかれ傷ついていた気もしますが、感情を言葉で伝えあっていれば傷口が膿まずに済んだ気もするんです。(こういうふうに思うのは、青春時代を過ごしてからそれなりに時間がたっているからかもしれません)
だけど、そんなに器用に生きられないのが人間だし、渦中にいればなおさらそうだし、特にショウヘンにとっては人生の真ん中に近い部分の話でしょうから冷静さを失うのも致し方ないかなと思います。
彼は彼で、「本当は嫌だった」とジェンシンから突き放されたことで、小学生時代の冷たい孤独を思い出していたんですよね、きっと。高校や大学では人気者になったショウヘンには両手で収まりきらない人数の友達ができました。男女混合の夜遊びにも誘われる。彼が手を伸ばせる島はたくさんあります。だけど、ショウヘンにとってはたったひとり、ジェンシンがいてくれることのほうが安心感を与えてくれていたんだと思います。ジェンシンという島が彼の存在を受け止め、受け入れてくれたから伸び伸びと生きていられた。そんな気がします。
ショウヘンにとってジェンシンはどんな存在なんだろう、と捉え直すと見方が変わりました。意識的に捉え直したというより、たぶんこの7年間の経験がわたしに違う視点を与えてくれたんだなぁと思います。
こんなふうに考えて、やっぱり疑問に思うんです。
人は、他人への「好き」の種類を、どこで、何で、決めるのか。
ショウヘンは最後、ジェンシンに言います。「お前は俺の親友だ」と。恋愛感情ではないと明確に伝えるんですね。(この前にジェンシンが「俺の秘密を知っても友達でいられるのか」「俺は恋愛的な意味でお前が好きだ」といった旨の言葉を投げかけているので、恋愛感情を明確に伝えられた今でもお前は親友だ、という答えはある種の救いでもあるかなぁ、と思います……全然つらいですが……拒否された方がマシかもしれないですよね……どうなんだろう……)
だけど、事後の映像を思い返すと、ショウヘンは意識的にか無意識にか、隣に寝そべるジェンシンの背中を包み込むように腕を伸ばし、半分覆いかぶさるような形で眠っている。まるで、どこにも行かないでほしい、離したくないとでも訴えかけるように。ただ自分の感情を確かめるだけだったら背を向けて寝てもおかしくない気もするんですよね。
ショウヘンはジェンシンに対する気持ちをどのように考えて、どう判断したんだろうと、今も疑問に思っています。
冒頭で書いたように、異性愛規範が当時は今よりもっと強固だっただろうから、やっぱり性別で判断したんでしょうか。同じ「大事な人」でセックスをすることができても、ジェンシンは男性だから「親友」。ホイジャは女性だから「恋人」。そういうことなんでしょうか。
それとも、大事に思う同性は「親友」にもなれるけど、大事に思う異性は「恋人」(もしくは「夫婦」)にしかなれないと考えられているからなのでしょうか。
ショウヘンが自分自身の中にある「当たり前」に従って答えを導き出したのか、それとも全く違う答えが見えていたけど社会の「当たり前」に従ったのか……。すごくもやもやします。全然すっきりしない。だからこそすごく魅力的で、おもしろい作品です。この決めきれなさ、つかめなさが本当に好き。
たとえば、ポリアモリーを実践できれば3人は幸せになれるのか、といえばそうでもない気がします。じゃあどうしたらみんな笑顔になれるのか、それはもう難しいのだろうか……などと、ずっと考えてしまいます。
想定する答えも、そこへたどり着くまでの道のりも今のわたしと10年後のわたしとではきっと違う。自分の価値観が変わっていけばいくほど見え方も変わる映画だろうなと、改めて感じています。
もっとも、丁寧に三者の言動を追っていったり、自分に広く深い知識や多彩な視点があったりすれば、自分の中で疑問に感じている部分は解消されていたのかもしれませんが……。笑 だけど、自分にとって答えの出ない作品があるということは、すごく幸せなことだなぁと思っています。情報やコンテンツを次々と消費していくことを求めてくる社会で、このように一点にとどまり眺め続けていられる作品の存在はオアシスのように感じます。制作された時代が違うと言われればそれまでですが、そうした作品がこの世界に存在していて、今こうして見ることができている。その事実がありがたいです。(なのでサブスクで配信していただけたらとってもうれしい……!)
また、公開当時はLGBTQ+という言葉はなかったと思うのでLGBT映画と称されていたのかもしれませんが、個人的にはLGBTQ+映画といったほうがしっくりきます。ほんとに全然、感覚的な話ですが。マジョリティー、マイノリティー問わず既存の恋愛感情や性的感情の枠組みに対する問い掛けを感じたからかもしれません(2024年の感覚で見ているからかもしれない。そしてここで言う問い掛けの先には、枠組みの破壊ではなく拡張があると考えています、というかそうであってほしい)。LGBTのくくりでは拾いきれないものがあるような気がしています。
最後に、なぜ自分の見方が変わったのか少し考えてみたのですが、恋愛的指向と性的指向は分けて考えてよいものだと知識として得られたことが大きいです。
自分自身は15年ほど前から恋愛感情と性的感情が一体のものとして語られることに違和感を覚えていたのですが、そんなことを感じているのは自分ひとりだと思い、それらは一体のものだと考えようとしてきました。違和感はなるべく底のほうに沈めてきたんですね。自分自身のセクシュアリティに向き合おうとしてきませんでした。
ですが、ここ数年で恋愛感情と性的感情がそれぞれ別の言葉として表現されていることを知ったんです。ひとりじゃないんだと安心したこと、自分の心が生きやすい状態でいたいと思ったことで、隠してきた違和感に向き合えるようになり、恋愛感情と性的感情を分けて考えることが自分の中で自然になりました。特に今年に入ってからそれが加速した感覚があります。トータルで考えるとずいぶん生きやすくなりましたが、だからこそ悩むようになったこと、わからなくなったこともあります。
ショウヘンの選択は「恋愛感情と性的感情が一体のものとして考えているからこそ取ったもの」と解釈していますが、これは自らの違和感をすくい上げられるようになったからだと感じています。一体であることが当たり前と考え(ようとし)ていたときには思い至れなかった。ショウヘンの葛藤に関しては言わずもがなです。この部分に関しては、2017年に見たときはジェンシンに肩入れしていたというのも作用しているかもしれませんが……。
だけど、「好き」をどう判断していくのか、という部分の悩みや葛藤に共感できるようになったことは確かです。
ちなみに、自分自身のセクシュアリティに関して絶対に向き合ってほしいわけではありません。あくまで自分は生きやすくするために模索しているだけであり、必ずしも決める必要はないと思っています。そもそもセクシュアリティは流動的なものなので……と、そう思うと大学生のショウヘンはジェンシンに「お前は親友だ」と告げたけど、10年後には恋愛感情だ、と感じる可能性もあるのかな……なんて気もしてきます。
海辺で感情をぶつけあった日から先のことも、考え始めると止まらなくなりますね。
作品そのものの持つ湿度や空気感が素敵ということ、ジェンシンの感情、ホイジャの感情など書きたいことはたくさんあるのですが、長くなったのでこのあたりで締めようと思います。
ちなみに、友人を連れてもう一度見にいったのですが、思っていた以上に楽しんで見てくれました。すごくうれしい。2017年はひとりで悶々とするしかなかったので、ビールを飲みながら台湾料理をつつき、さまざまな感想をあれやこれやと共有できたのがとっても幸せでした! これも修復版を上映していただけたからこその経験だなぁと思います。上映を決めてくださった方、上映してくださった映画館のみなさんに深く感謝いたします。
(これは完全に作品に関係ない余談ですが「ジェンシンの笑顔が見たいよ~~」とふたりで一緒に嘆いている途中、友人が「ジェンシン役の俳優さん『We Best Love』っていう台湾のBLドラマに出てたよ」と教えてくれました。ハピエンらしいので即履修したところすっかり転げ落ちてしまい、ノベライズまで買ってしまいました……ちなみに友人もこれを機に再履修したところドハマりし、わたしと同じ状況になっています。笑 まさかの新たな出合いにも感謝です。またひとつ人生が楽しくなった!)
ツイッターの相互さんも見にいってくださったり、気になるとおっしゃってくださったりして、それもすごくうれしいです。
すでに上映が終了したところ、そろそろ上映終了するところもあるのですが、これから始まるところもあります。都内ではシネマート新宿さんは30日まで上映してくださるとのことです。
劇場情報の詳細は以下の公式サイトにあります。ぜひ!
勢いで書いたので支離滅裂な部分もあるかと思いますが、このあたりで!
ではでは~
「かわいそう」な人生じゃない――ミュージカル「GIRLFRIEND」の感想
「かわいそう」な人生ではなかったし、「かわいそう」な人生じゃない。ウィルも、マイクも、そしてわたしも。
6月14日から7月3日まで日比谷のシアタークリエにて上演されていたミュージカル「GIRLFRIEND」の感想を書いていきます。
前回はキャストによって異なるウィルとマイク像、ふたりの関係性についての感想を書きました。5組計6公演をそれぞれ3000~9000字の間で振り返っています。公演ごとに章立てしているのでお好きなペア、お好きな方の部分だけ読んでいただいても大丈夫です! ガルフレの世界に引き続き浸っている方、どんな公演だったのか気になる方がいらっしゃいましたら、前回のエントリーものんびりお付き合いいただければ幸いです。
初めて「GIRLFRIEND」関連のエントリーを読む方向けにあらすじを説明します。舞台は1993年のアメリカ・ネブラスカ州の田舎町。同性愛への差別・偏見が強い社会の中で惹かれ合う男子高校生たちの日々と別れ、再会を描いたお話です。アルバム「GIRLFRIEND」収録曲を中心に全編マシュー・スウィートの楽曲で構成されたアメリカ発のミュージカルで、今回が日本初上演でした。
では、さっそく始めます! 前半は作品の内容に関すること、後半は作品に対して感じたことを記します。今回ものんびりお付き合いいただけましたら幸いです。
【目次】
雰囲気と感情を描いた編曲、情緒的な和訳詞(約1万字)
えっ、クリエで聞いてきたのと曲の雰囲気が違う……!?
初観劇を終えた後、あの夏の香りを途切れさせまいとすぐにマシュー・スウィートのアルバム「GIRLFRIEND」を聞いて驚きました。ミュージカルで聞いた曲とテンポやキー、アレンジが違うものが多かったんです。
言うまでもなく原曲はすごく素敵です! だからこそ、アレンジを加えたのには理由があるのではないかと推察しました。ここでは、中でも印象的だった「Evangeline」がテンポやメロディ―のアレンジによってどんな効果を得られたのか考えてみます。また、「You Don’t Love Me」と「I Wanted to Tell You」の歌詞の意訳がとても素敵だったのでそちらにも触れていきます。
個別の話をする前に少し全体の話をします。
音楽に関して素人なので印象論になりますが、原曲は基本的にバンドサウンドだと感じました。ジャンルはパワー・ポップというビートルズの流れを汲んだロックの一種らしいです。納得。確かに1曲目「I’ve Been Wating」を聞いたときビートルズを思い出しました。
原曲とミュージカル版を聞き比べたときに違うと明確に感じたのが「Reaching Out」「We’re the Same」「Evangeline」「I Wanted to Tell You」でした。
リズムを比べてみます。音楽素人がBPMを測定したのであくまで参考です。特にミュージカルの曲は記憶を基に歌いながら測定したものもあるので、本当に参考で……! 「曲名 原曲BPM/ミュージカル版BPM」の順で記しています。
Reaching Out 70/90~91
We’re the Same 114/60→114
Evangeline 87/78
I Wanted to Tell You 126/160
結構違うのがわかります。基本的にはテンポが上がっていますね。高校生たちの恋愛を描いた作品なので、胸のトキメキや期待、緊張感、10代ならではの全能感のようなものなどを表現したかったのではないかと考えています。
「Reaching Out」はドラマティックな演出にしたかったのかもしれません。ミラーボールを使い星空を表現したステージの上手と下手で、ウィルとマイクがシンメトリーになって踊り「夢のない世界で死ぬだけ 死んでる」と印象的なフレーズを歌う、それぞれの孤独を感じさせるシーン。スローテンポな原曲も素敵ですが、テンポを上げたほうが10代の孤独と差し迫る寂しさ、諦めのような感情が伝わりやすい気がします。
また、テンポを上げた曲が多いのは観客の感情を高揚させる狙いもあったかもしれません。特に本編ラストの「I Wanted to Tell You」はかなりテンポアップしています。これは、一度離れたウィルとマイクが再会した場面で歌われる曲ですから、強いカタルシスを感じさせる必要があったからだと解釈しています。
「Evangeline」は数字だけ見るとそれほど差は大きくないですが、メトロノームで聞くと曲の印象が変わるのがわかります。また、この曲だけ終始テンポを落としているんですよね。ということで、まずはこちらから考えていきます!
「Evangeline」
ウィルとマイクが初めてキスした翌日、ドライブインシアターに出かけ「自分たちの映画」をつくりながら歌う曲です。
原曲はギターやドラムが鳴るバンドサウンドでコーラスも入っており、音数がそれなりにあります。明るい印象を与えるアレンジだと感じました。
一方のミュージカル版は、かなり音数を絞っている。エレキギターとバスドラムの音でしょうか、リズムを取る音がメインだったんですよね。コーラスが入ってくるところもあるのですが、そのときは楽器がバランスを取って控えめになっていた記憶があります。
ここで音数を少なくしたのは、ウィルとマイクの没入感を表現するためだったのではないかと考えました。ドライブインシアターにいて映画も流れているし他にも車で見に来ている人たちはいるけれど、キスした後「眠れなかった」と言うほど浮かれているふたりは、互いの存在に夢中で自分たち以外のあらゆる存在が見えなくなっている。マイクにはウィルの歌う言葉しか聞こえないし、ウィルにはマイクの歌う言葉しか聞こえない。音数を減らすことでこうした心境や状況を表現したのではないでしょうか。
また、サビあたりでエレキギターが奏でる音が「レミファ#ソファ#ミレ#ミレ」なんです。Astageさんの高橋萩谷ペアゲネプロ動画の2:26あたりで聞けます。
もしかしたらエレキギターゆえ音が少し歪んで聞こえているだけで(音が歪むということがあるのかな)、普通に「レミファ#ソファ#ミレミレ」かもしれません……バーチャルピアノで音を取ってみたのですがしっくりこなくて悩んでるところです。
ここでは半音(黒い鍵盤の音)を入れている前提で話します。
半音が入ると恐怖感を与えるメロディ―を作りやすいらしいんですね。なぜ半音が恐怖感につながるのか。それは、白い鍵盤の「ドレミファソラシド」という順序通りの音のつながりを”乱す”音だからだと考えました。
心理学に関しても素人なので感覚ベースの話になりますが、恐怖感は「この先何が起きるんだろう」という不安や心配になる気持ちと言い換えられると考えています。安定せず、と書いて「不安」。恐怖感を覚えている状態というのは、感情が不安定になっている状態と言えます。
「Evangeline」で奏でるメロディ―をあえて「ミレミレ」と白鍵の音で終わらせず黒鍵の音を混ぜ調和を崩したのは、期待と緊張の狭間でグラグラと揺れているウィルとマイクの不安定さを表現するためだったと解釈しました。
あのときのふたりには、さらに身体的な距離が近くなるかもしれない、関係が発展するかもしれないという期待と緊張があったと思うんです。ウィルはどう出る、マイクはどうする、とお互いの心を眼差しから読み取ろうとしていた。歌詞自体は映画の内容にのっとって愛を告げる内容だったと記憶しています。それでも心地のよい緊張感を感じられたのは、メロディ―のアレンジによる効果が大きいのではないでしょうか。
また、妖艶さすら感じさせるエレキギターの音は、深まっていく夜を表現するのにも一役買っていましたよね。夜は静かな時間ですから音はそんなにいらない。「Evangeline」は音数を少なくして音と歌声を目立たせたことで甘い緊張感が高まってたと思います。本当に素敵なアレンジ……!
幕の後ろで歌うとき、ウィルとマイクが囁くように歌っていたのもすごく好きですしよかったです! お互いにだけ聞こえればいい言葉を渡し合い、そのまま熱烈なキスを交わしてマイクが自分の部屋に「行こう」と連れ出す流れは、感情や欲望がひたひたと揺れていて濃密でした。水分をたっぷり含んだスポンジのようで、人差し指で軽く押しただけでもじわりとにじみ出てしまうんじゃないかとドキドキ。作中でも印象的な場面です。
ミュージカル全般に言えることだとは思いますが、キャストさんの演技、和訳詞、メロディ―のアレンジが三位一体となっていたからこそ、あの夜のウィルとマイクをあますことなく表現できていたように感じます。音楽や声といった「音」の力、効果を感じた場面です。すごく好き。
次の2曲は言葉に焦点を当てて考えていきます。
「You Don’t Love Me」
マイクが引っ越す当日の朝、ひとつのやり取りでウィルとマイクの関係が大きく崩れていった場面で歌われる曲です。
この曲もそうなのですが、ウィルとマイクの心が触れ合う場面の曲は音数が少なくなっていたように思います。ふたりが想いを重ね合わせる「We’re the Same」はギターの弾き語りから始まりますし、マイクの部屋で夜を共にする「Your Sweet Voice」では無音のハモリから始まり、後から添えられた演奏も原曲以上に楽器の音が控えめだった気がします(もう記憶が曖昧になってしまっている……)。
音数を減らしウィルとマイクの歌声を際立たせることで、心の重なりを捉えてほしかったのかな、なんて考えました。
この項目での本題に移ります。
「You Don’t Love Me」ですが、この曲は和訳がとても素敵で大好きです!
まず出だしの「What a beautifil moment」が「なんて美しい瞬間」ではなく「なんて甘美な瞬間」だったことで、ウィルとマイクの間には確かに恋愛感情が存在していたし、共に過ごした夏が褒美のような瞬間でも、待ちわびていた瞬間でもあったんだと捉えることができました。甘く美しいと感じるような日々だったんだ、と思うことですれ違ってしまったことへの切なさが増します。
また「甘美な」としたことで、あの時点でのふたりの心境を正確に伝えているとも感じました。
「美しい」というのは色や形、音など、客観的に捉えられるものに対して使う形容詞です。「美しい」と感じる主体と対象が離れた状態にあるからこそ使える言葉だと思います。だから、「なんて美しい瞬間」だとすると、ふたりと夏の日々の間に距離があるように感じた気がするんですよね。夏の日々を手に取って眺めることができる、つまり冷静だからこそ「美しい」と思える。ふたりはあの日々をもう過去にできている。そんな印象を受けたと思うんです。
「甘美」というのは、甘くておいしいとか、心地よくうっとりするとか、そういった意味の形容詞です。客観視できるものに対して使うこともできますが、味覚から得られる感覚にも使えるというところが「美しい」とは異なります。味覚はその対象と触れ合うことで初めて刺激されます。アイスクリームも口にしなければ甘い味がするものだとわからない。「甘美だ」と感じる主体と対象が離れた状態では使えない言葉です。それを踏まえて考えると、自分にとって快い、甘やかな日々だったと感じられるほど、ウィルの中にもマイクの中にもあの夏の日々が色濃く残っているんだと解釈できます。シンプルに「甘美」としたことで恋愛のトキメキがあったことも伝わってきますね。
もちろんすれ違ったばかりですから離れられないのも当然だとは思いますが、「甘美な」としたことで心の内側に満ちている感情を無理に引き剥がそうとしている痛々しさや苦しみが、より一層伝わってきたのではないかと思いました。
「美しい」ではなく「甘美な」とひとつ言葉を置き換えるだけで、夏の日々を表現しつつふたりの心境も表すことができるんだなぁ……と、言葉の奥深さをまたひとつ知ることができました。
また、サビの和訳がとても印象的なこの曲。原曲の歌詞は「僕の愛を信じられなくなった君が、もし他に幸せにしてくれそうな何かを見つけたのならそれでいいよ。君が離れるとしても」といった内容のものだと思います、たぶん。英語が得意なわけでもないのにすごく意訳をしています。
これが和訳だと「気づかない 君に恋焦がれてる僕を愛せない僕のことを 別れるつもりだよね It’s okay」になっているんですよね……! 主体が「君」であること、別れを受け入れようとしているのは共通していますが、諦念の度合いが全然違うように感じてたまらくなってしまいました。
原曲は「君は僕の愛を信じられなくなったみたいだけど、幸せになれそうならそれでいいよ」と関係への諦めが強く、別れに至ったことを自分なりに受け入れようとしている「僕」に見えます。
ですが、和訳だと「こんなにも君のことが好きなのに、そんな自分自身を愛せない僕の苦しみに君は気づいてくれないんだ。別れるつもりだからもうどうでもいいんだよね、わかったよ」とヤケになっているような「僕」に見えたんですね。諦めるなんて全然できない。こんなにも好きで、だからこそ苦しんでるのになんで君は気づいてくれないの、と他者を責める思考に陥っている。これは「相手は自分のことをわかってくれるだろう」という期待や理想化ゆえに生まれた思考だと思っています。期待が満たされず覚えた失望感が渦巻いているといいますか……。お互いをすぐ諦められていたら「(君は)気づかない」とはならないと思うんです。
和訳について考えたとき、ドライブインシアターで夜な夜な見ていた映画「エヴァンジェリン」の内容を思い出しました。マイクはこんなふうに解説します。「彼は目の前に彼女がいるのにいないと思った。それは目の前にいる彼女が彼の思う彼女じゃなかったから」。現実の彼女は理想像とは違っていて彼はそれを受け入れられなかった、というすごく示唆的な内容ですよね。「君は僕で、僕は君だ」と歌い合い響き合ったウィルとマイクが一度行き着いてしまったのが、自分と同じで自分のことを何でも理解してくれると思っていた君が「君」じゃない、だったと思うので。
こんなふうに、あまりに共鳴しすぎてお互いに入り込みすぎてしまったウィルとマイク。ふたりが離れることになったとき、君が幸せになれそうならいいよ、なんて大人ぶったとしても言えるはずないですよね。だって本当は一緒にいたいし、隣で生きていきたいんですから。
手紙がバレてしまった場面、ウィルが離れていってしまうことに焦ってキスをして、繋ぎとめるための言葉にしか聞こえない「愛してる」を告げたマイクはあまりにも必死だし、今まで「月に行かないで」や「何年かかってもいいよ」など遠回しにしか伝えてこなかったのに「じゃあここに残って」と切望するウィルはあまりに悲痛だし……。このシーンは「You Don’t Love Me」を歌った後のシーンですが、一緒にいたいという感情は変わらずにあったと思うので、本心の例として挙げさせていただきました。
和訳される際、ウィルとマイクの切実な感情により一層沿うように言葉をチョイスなさったんだろうなぁと思うと、あまりにおこがましいですが感謝の気持ちでいっぱいになります。「君に恋焦がれる僕を愛せない」というフレーズ、刺さりすぎました……ウィルとマイクの感情や関係性、境遇に照らし合わせるともう本当におしまいになってしまいます……身をやつすほど想いを募らせているのに、そんな自分を愛せないなんてどうしたらいいかわからなくなってしまいそう。17歳だったらなおさらですよね。本当にすてきで大好きな歌詞です。
ウィルとマイクがこんなにも痛切な思いを歌った半年後、年越しのリンカーンで再会時に歌われる「I Wanted to Tell You」 のサビの歌詞と和訳を比較したときに気づいたことがありました。それは、「気づく」という単語を「You Don’t Love Me」とリンクさせ、主体を変えることでふたりの心境の変化を鮮やかに描き出しているのではないかということ。
「I Wanted to Tell You」ではその話を書いていきます。
「I Wanted to Tell You」
原曲の歌詞をざっくり意訳すると「僕はやりたいことをやるんだ この世界で生きていくよ だって傷つけるものは何もない 君のことを考えずにいられなかった もう僕の腕の中にいたんだね 間違ってた だけど僕は言えなかった言葉を伝えたかったんだ (Love) 自分の気持ちを見つけなきゃいけなかったけど、ずいぶん時間がかかってしまった 愛してるよ」といったような内容でした。
和訳は「やりたいことやるだけ やるだけやるだけ 君の世界に浸るよ 僕は怖くない 気づかないうちに君はもう腕の中に 間違ってた I wanted to tell you 言えなかったんだ (Love) ついに見つけた 今僕は君を 君を」でした。
ひとつ目にお話したいのが「気づかないうちに君はもう腕の中に」です。
文語っぽく書くと「僕が気づかないうちに君はもう腕の中にいたんだ」となるこの歌詞。原曲では「You were already in my arms」となっていて、主語が「君」なんですね。あくまで「君」の状態として語られている。それに、「気づく」というニュアンスの言葉もありません。ここで「気づかないうちに」として明確に動作の主体を描いた理由が、同じ単語を通して心境の変化を描きたかったからでは、という仮説の答えにつながっていきます。
「You Don’t Love Me」でウィルとマイクは「気づかない 君に恋焦がれてる僕を愛せない僕のことを」と歌っていました。「気づかない」の主体は「君」でした。こんなに苦しんでる僕に君は気づいてくれない……という感情でしたよね。お互いがお互いにのめり込み「僕は君、君は僕」の感情が強くなりすぎて、本来は全く別の存在である「君」のことが見えなくなってしまっていました。
別れてからウィルは働き始め、マイクは大学で勉強を始めた。それぞれ「君」だけではない違う世界、いろんな人を見て生きてきたわけです。相手のことを忘れられないままだったのはふたりの表情が物語っていましたが、それでも物理的に距離が生まれたことで、のめり込みべったりとくっついてしまった「君」のことを客観視することができた。
日々を生きる中で、きっとふたりはお互いのことを考えていました。今どうしてるか、どんなふうに生きているか、あのときどう思っていたのか。自分のこともたくさん省みたはずです。あの半年間で、ウィルとマイクは「僕は君、君は僕」が孕む危うさに気づいたし、お互いのことを見ているつもりだったけど見えていなかったことに気づけたんだと思います。
ここで「気づかないうちに」という和訳が効いてきます。「You were already in my arms」を君の状態ではなく「僕」の認知として語ることで、たった1フレーズで半年間の心境の変化、心の成長を伝えることができるんです。どういうことか。
「You Don’t Love Me」では「君」が気づいていない、「君」は僕のことが見えてない、君の愛は「もうここにない」と思っていましたよね。それが「I Wanted to Tell You」では「僕」が気づいていなかった、「僕」が僕自身のことをわかっていなかった、君の愛は「ずっとここにあったんだ」になったわけです。
これに気づいたとき、もう本当にすっっっっっごく好きだなぁ……と、これ以上好きになれないってくらいミュージカル「GIRLFRIEND」のことが好きなのに、さらに好きが募りました。こちらの考えすぎな暴走解釈かもしれませんが、本当に素敵な和訳……!
ウィルとマイクの成長を感じて胸がいっぱいです……。ただあの日偶然再会したから手を取ったわけじゃなくて、離れていた時間にお互いが相手のこと、自分のことを考えて成長したからこその展開だったんだ、と和訳を見つめて気づきました。
高校生のときは、選んだというよりお互いしかいなかったというほうが近いかもしれないなぁと思うんです。同性愛者かもしれないと思える相手、打ち明けられる相手が君しかいなかった。出会うべき人だったけど選んだ感覚は薄かった気がします。
でも、年越しのリンカーンでは違ったと思うんですよね。一度離れて高校生のときより広い世界を見て、きっとさまざまな人と出会ってきた。この世界にひとりきりでもない、ふたりきりでもないということを知った上で、もう一度お互いを選んだんだと思うんです。妥協でも勘違いでも思い込みでもないふたりの選択。それがすごくうれしい! こんなふうに思わせてくださる和訳にあらためて感謝が募ります。
ふたつ目にお話したいのが「I let the world surround me ’Cause I saw no real harm」という部分の和訳です。
ミュージカルの内容に沿わせることなどを考えず単に訳すると「I let the world surround me」は「僕は世界に自分自身を囲ませる」→「僕はこの世界が自分の周りにある状態にする」→「僕はこの世界で生きていく」、「’Cause I saw no real harm」は「なぜなら僕は実害がないことを見た」→「だって傷つけるものは何もない」となるのかな、と思っています。この部分はあくまで「僕」がメインで他に具体的な存在は見当たらない内容です。
ですが、作品の和訳だと「君の世界に浸るよ 僕は怖くない」となっています。「君」がいる……! 作品の和訳は、ウィルとマイクの心情やふたりが過ごした夏の思い出、ふたりが生きる1990年代の社会などあらゆる要素を凝縮した言葉選びになっていると感じます。比較対照したことでより一層好きになった部分のひとつです。
囲むという意味の「surround」に浸るというニュアンスを見出したこと、「the world」をただ単に世界とせず「君の世界」としたことが、ウィルとマイクの世界観にぴったりで感動しました。ウィルとマイクは「自分たちの映画をつくろう」と即興で役者ごっこをするようなふたりです。空想するのが楽しいと思っているし、実在しない世界を描ける想像力を持っている。それぞれに、それぞれの世界がある人たちです。そんなウィルとマイクが向き合って再会を喜びながら歌う言葉と考えたとき、確かに「僕はこの世界で生きていくよ」ではなく「君の世界に浸るよ」のほうがしっくり来るんですよね。
前者だとしても、たとえば同性愛者として生きていくとか、差別や偏見が厳しい世界でも自分のままで生きていく、いろいろなことが遅すぎるかもしれないけれど一歩ずつ進んでいくとか、そういったふうに捉えられます。自分自身がどう生きていくかという決意をウィルとマイクが歌っても全然違和感はないです。話にも合います。
ですが、後者にしたことでウィル自身、マイク自身の話でありつつウィルとマイクの話としても伝わるものがあるフレーズになったように感じました。「僕」ひとりではなく「君」がいる世界を選んだ。そんなふたりの選択を、向き合って一緒に歌っています。
ふたりで一緒に選ぶのって作中ではこれが初めてなんですよね。ドライブインシアターへ行くか、迎えに行っていいか選んだのはウィルだし、世界一の場所へ連れていくこと、自分の部屋へ連れていくことを選んだのはマイクだった。作中で唯一ふたりが一緒に選んだことが、君と生きていくことなの、すっっっっごく好きです。
それに「浸る」というのもいいですよね。君の世界に浸る……精神や細胞など目に見えないものまで君の世界に染まっていく、それを許容する、そんなイメージが広がります。「僕は君、君は僕」と違うのは「君の世界」とあくまで別のものと認識しているところです。高校生を卒業したばかりのときはイコールだと感じてしまっていた部分があったと思うんです。だけど、半年離れたおかげで共鳴できる相手だから好きなんじゃなくて、ウィルがウィルだから、マイクがマイクだから好きなんだと気づけた。これからは理想化することもないはずです。
「’Cause I saw no real harm」を「僕は怖くない」としたのは、1990年代を生きるふたりに対する誠実さを感じました。書いていて悲しくなるし腹立たしいけれど、同性愛者にとっては差別・偏見がはびこる社会自体が傷を与えてくる存在なわけです。楽しいことうれしいこと幸せなことだってたくさんあるし常に傷ついている存在だとは思いません。だけど、傷つけてくる言葉や態度、眼差しがいつ降りかかってくるかわからない、命の危険にさらされる可能性だってある社会で「傷つけるものは何もない」とは歌えないと思うんですよね。英語を英語のままで聞くとニュアンスが違うのかもしれませんが、少なくとも日本語に翻訳したとき、わたしはそう思いました。
「怖くない」とすると、現状をすべて踏まえた上で、それでも一緒に生きていくんだと決意したふたりの強さが感じられます。生きているふたりの心が言葉から見えてくる。さりげないけれどすごく重要なフレーズです。
同性のウィルを、マイクを愛していくという選択。「I Wanted to Tell You」からは、高校を卒業したばかりのころは何がしたいかわからなかったり、父親に言われるがまま進学することにしたりしたふたりが、人生に対して能動的になったと感じられます。すごく素敵。
他人を愛することが必ずしも人間的成長につながるわけではありませんし、他人を愛せないとしてもそれが未熟とは全く思っていません。成長するために誰かを愛するわけでもない。
ただ、ウィルとマイクの人生にとっては本当に大きな出会いだったし出来事なんだと「I Wanted to Tell You」の歌詞を考えて再認識しました。出会って別れたからこそ成長できた部分がたくさんある。出会えてよかったふたりすぎます……。
翻訳する上での変更点がわたしはすごく素敵だと思ったのですが、これは原曲の歌詞を下げているわけではありません。あくまで日本語で歌う場合、今回のような歌詞にすることでこんなことが伝わりやすくなったのでは、こんなふうに受け取れるようになったのでは、というひとつの意見ですのでご了承ください。
アメリカで上演されるときは原曲の歌詞のままだと思うので、ウィルとマイクの物語がどんな印象になるのか気になります。歌詞は載っていないと思うけどとりあえず早くペーパーバックが読みたいところ……頑張って読むぞ……!
ここまでは楽曲や歌詞分析を通して作品の感想を記してきました。
ここからは物語の内容そのものへの考察ではなく作品に対する感想を書いていきます。とても個人的な話も含みますが、もしご興味ある方は引き続きお付き合いください!
異性愛を移植した同性愛ではなく、男性と男性の恋愛(約2500字)
「自分たちの映画をつくろうよ」
初めてキスをした翌日、ウィルがドライブインシアターで「エヴァンジェリン」を見ながらマイクに提案した場面。ウィルとマイクは交代で男女どちらの役柄も演じてみせました。それが、受け/攻め的視点を剥がそうとしているように思えて、すごく印象に残りました。
ステレオタイプな見方をするとマイクが攻め(異性愛でいう男性側)、ウィルが受け(異性愛でいう女性側)というように解釈できる気がします。こういう想像ができる時点で、一見大人しく見える人は「女性らしさ」がある、だから受け側と捉える価値観が自分の内側にまだ残っているなぁと反省するのですが、そうしたものをすべてなぎ倒してきたのが「Evangeline」での演出でした。
受けと攻めの体格差がほぼ男女のそれ、中性的な名前やビジュアルの受け、社会で「女性がするもの」とされている家事や名字を相手に合わせることをすべて受けが背負うなど、これは男性同士の恋愛だから「ボーイズラブ」とされているけど異性愛をそのまま男性同士に置き換えただけじゃない……? と感じるような作品を昔いくつか見たことがあります。さすがに今はここまで極端でないと思いますが、いまだに残っているなぁと感じる場面はあります。
そもそも家事は女性が担うもの、結婚する場合名字を変えるのは基本的に女性という社会に全く納得いっていないので、上記のような描かれ方には居心地の悪さ、無邪気な残酷さのようなものを感じていました。受け/攻めとは創作におけるセックスの際のポジションの話でしかないと思うのですが、それが個々人の生き方や関係性のあり方にまで浸食していることがたまにあります。
だけど、「Evangeline」の場面はウィルとマイクがウィルとマイクとしてあるだけで、さまざまな役割の固定化につながりそうなことをしていませんでした。ここだけいうより、この場面が象徴的だったと記したほうが正しいかもしれません。物語を振り返ると大半のことがそれぞれの性格、家庭環境に起因していて、それらが絡まることで物語が進んでいったし、「男らしさ」「女らしさ」の押し付けを感じなかったので(というふうにわたしには見えましたが覚えてないだけかも)。これは深読みのしすぎかつ偶然な気もしますが、キャストさんの身長がウィルとマイクが同じくらい、もしくはウィルの方が高かったことにも言及しておきます。
上記のことから見た目や振る舞い、性格などでこちら側に受け/攻めを判断させない、そもそも受け/攻めというある種記号的な見方をさせない、異性愛の代替ではなく男性と男性の恋愛を描く、という姿勢を勝手に感じました。自分自身が男性同性愛者ではないのにこうしたことを言っていいのかわかりませんが、それらがすごくうれしかったんですよね。うれしかったというのが正しいのかな……しっくりくる言葉が浮かんでこないのですが、ポジティブな感情になったことは間違いないです。
これに関連して、作品パンフレットで翻訳・演出を担当された小山ゆうなさんが印象的な挨拶をされていたので一部引用します。
二人は、ガールフレンド(女の子)にあてたアルバムの楽曲を使いながら、互いの思いを 確かめ合い、愛を育み、人生の理不尽に向かい合い、鬱憤を晴らしたりする。異性愛の物語に自分達を重ね合わせるしかなかった時代なのだ。
最後の一文は本作がウィルとマイクの恋愛を「男性と男性の恋愛」として描き切ったこととつながっているように思います。同性愛者である自分たちに寄り添う物語が存在しなかった、異性愛の物語に自分たちを重ねること「しか」できなかった時代のふたりを異性愛者の文脈で描くことって、すごく乱暴ですよね。世間一般の言う「普通」を押し付けているように見えます。少なくともわたしには。
作品の作り方を通して1993年を生きていたふたりに対して誠実であろうとしたのかな、だからこそ「男性と男性の恋愛」として描き切ったのかな、と感じます。もっとも、トッド・アーモンドさんが書かれた脚本の段階で「エヴァンジェリン」のごっこ遊びはお互いが男女を演じ合うことになっていたと思うので、作品の中身と小山さんの眼差しが直接リンクしているわけではないかもしれませんが……。
この項目でつづってきた感覚をうまく言語化できていなくて申し訳ないのですが、自分にとって本作を振り返る上で重要な点だったので記しました。
また、ウィルとマイクが「Girlfriend」というアルバムをどういった気持ちで聞いていたのかというところまで考えが至っていなかったので、小山さんの眼差しにハッとさせられました。
今はApple Musicを開けば「クィアの恋愛」というプレイリストがあるし、日本にも同性への恋愛感情をつづった歌があります。ここ数年でいうと、Official髭男dismの「Pretender」(2019)は異性愛だけではなく同性愛としての解釈もされていました。宇多田ヒカルさんの「Time」(2020)や「ともだち」(2016)は明確に同性への恋愛感情として歌詞が書かれています。歌というフィクションが存在するということは、LGBTQ+の存在を知っている制作者がいるということです。心情をつづるということは少なくとも肯定的に捉えている、と思える。「自分の音楽」があるという事実は、ひとつの心の支えになります。
だけど、1993年を生きていたウィルとマイクにはそうした音楽すらなかったんですよね。ゲイなのはこの町で、もしかしたら世界中で自分だけかもしれない――。「Girlfriend」をどう聞いていたか考えることで、音楽や映画といった文化的なものからもウィルとマイクの孤独が感じられました。
わたしは本作をウィルとマイクの恋愛を異性愛の文脈ではなく男性同士の恋愛、同性愛として描いてきたと捉えました。では、男性同士の恋愛をどう描いてきたのでしょうか。次の項目ではそのあたりの話をしていきます。描かれ方に対する感想も記します。
同性愛差別が「軸」ではなく「時代背景」(約2100字/4500字)
ミュージカル「GIRLFRIEND」はウィルとマイクの物語を、それぞれの性格や感性による一致、家庭環境などによって培われた価値観の不一致を用いて描いていました。同性愛差別を軸に据えたり「同性愛者だから……」という悲劇的な構成にしていないんですね。
わたしはマイノリティを「かわいそう」と思いたくない人間です。だから、同性愛差別は無視できない事実だけれどあくまで時代背景として扱い、ウィルとマイクというふたりの人間の物語として描き切ったところに好感を持ちました。
悲劇的な構成というと、例えば同性愛者であることで暴行を受ける、言葉で尊厳を傷つけられるなどといった描写が繰り返されながら物語が進んでいく、といった感じでしょうか。差別や偏見の目がある中で隠れて想い合うふたり(これは半分当てはまる)、同性愛嫌悪の空気に耐え切れず別れを選んだふたり、という見せ方もできただろうなと思います。
言葉に関しては皆無だったわけではありませんし明確に差別が描かれています。そうした社会の空気がふたりに与えた影響も決して無視できません。心にとどめて今も残ってしまっている現実の問題として捉えていきたい。
ですが、それらの要素を軸に据え具体的な暴力が反復して描かれていたとしたら、観客側は「かわいそう」という感情を強く覚えていたかもしれないと思うんです。感じる必要のない痛みを感じてしまっていることへの同情だったり、虐げられていることへの同情だったり形はさまざまだと思いますが、そちらにばかり目が向いてしまったかもしれません。それこそ「マイノリティは差別や偏見の目にさらされ苦労しているかわいそうな存在」や「禁断の愛」などといった従来の価値観に閉じ込められてしまった気がするんですね。
本作はそうしたマジョリティ的感覚が生まれる可能性を回避していたように感じます。相手に好意を寄せていることと地元を離れたいと願う気持ちのせめぎ合い、「大学へ行くのは遅すぎると思う?」という問いかけに対する捉え方の違いで浮き彫りになったすれ違いは同性愛者にだけ起こり得ることではありません。ウィルとマイクの物語は普遍的なものとして描かれていました。
劇場では「作家のノートより」と題されたA4サイズのプリントが配布されていました。そこには1990年代のアメリカにおいて同性愛者がどういった立場に置かれていたか、どれほど厳しい差別・偏見の中で生きていたか、同性愛者であると明らかになってしまうことに対しどれほどの恐怖を感じていたかということがつづられていました。
これらはキャストさんたちにも当然共有されている知識で、パンフレットのウィル役キャスト鼎談でそのあたりのお話はされていました。興味深かったのは、みなさん時代背景に引っ張られすぎないようにしたいとおっしゃっていたこと。時代背景を踏まえた上で、ウィルとマイクという青年たちの物語を紡ぎ出すことに重きを置いていたんですね。
もちろん軽視しているわけではなかったと思います。井澤さん、木原さんペアのインスタライブのアーカイブしか拝見できていないのですが、井澤さんはおそらくクィア映画を見て勉強したとお話されていたり、木原さんはプライド月間について説明するとき最初鮮明に思い出せなかったものの「こういうのは正式に言わなきゃ」「僕らもいろいろと考えないと」とおっしゃっていたりと、それぞれがそれぞれの形でLGBTQに向き合っていらしたことは伝わってきました。おそらく高橋さん、萩谷さん、島さん、吉高さんもそれぞれ考え、向き合われてきたんじゃないかと思います。
「作家のノートより」につづられれいたゲイが抑圧されていた事実、そこから生まれていたであろう緊張や恐れを根底に持った上で「ハッピーな部分はハッピーに」(高橋さん)、「恋愛の甘い感覚は第一に持っていたい」(島さん)とみなさんそれぞれにキャラクターのあり方や関係性の築き方を固めていったそうです。井澤さんも「ゲイだから」ということを際立たせた演技はしないつもりといった旨の話をされていました。キャストさんたち自身もゲイであることに悲観的になりすぎず、あくまでウィルとマイクの物語として紡ぎ出していこうと考えていたことが見て取れます。
このように脚本や演出、キャストさんたちの解釈によって、ウィルとマイクを「かわいそう」な存在として描かず物語を成立させていました。成立していたどころか、ふたりの物語として受け取り強く感動することができた。もちろん時代背景による苦しさはありましたが、観劇後に自分の中に浮かんできた感想が「同性愛者というだけで差別されていてかわいそうだった」ではなく「共鳴できる相手がいる事実に救われる時間もある」「僕は君、君は僕は危うさを孕む感情だけど、青さゆえの一言で片付けられない」だったことが、ふたりの物語として受け取れた証拠かな、と思います。
男性同士の恋愛を描くことと時代背景を伝えることのバランスが自分にとってはすごく絶妙だったので、大きな引っかかりを覚えずストレスなく観劇でき、さらにはこんなにハマってしまったんだろうなと感じています。「かわいそう」と思わずに観劇できたことがうれしかったんですね、きっと。ガルフレに出合えてよかった!
この項目の残りは、作品の感想にまつわる個人的な話になります。次の項目はおしまいのご挨拶ですので、ここでページを閉じていただいて全然大丈夫です。
ここまでお付き合いいただき本当にありがとうございました!
マイノリティへの「かわいそう」に対する抵抗感は自分自身がLGBTQ+の当事者であると自認していることが大きいです。
いくつかのセクシュアリティの間でふわふわ、ゆらゆらと揺れながら生きているので「このセクシュアリティと自認しています」と明言するのは難しいのですが、他人に性的に惹かれたことがない、ということは幼いころから変わってないです。このことを親しい人に明かし始めたのは今年に入ってからなので、人生のほとんどを恋愛への興味が薄いヘテロセクシュアルの顔をして過ごしてきました。
恋愛感情と性欲が一体とされる世の中の「普通」と自分の感覚とのズレを中学生のころから覚えつつ、だけどそれを誰にも明かせないまま生きてきた中で、異性との経験人数を飲み会で答えさせられたり、交際経験についてあれこれ聞かれたり、「本当に好きな人に出会ってないだけ」「もったいない」と言われたりしてきました。恋人がほしいなんて一言も言ってないのに励まされることもありました。
そうした反応を受けたり言葉を聞いたりするたび「普通じゃない」「普通と違っててかわいそう」と言われている気がしたのを覚えています。「普通」の人なら獲得できるさまざまなものを取りこぼしてるように見えるんだろうなぁ、さまざまなものが欠落しているんだろうなぁと、我ながら被害者意識が強すぎると反省しつつ、そんなことを考えて悩む日がたくさんありました。
ズレててもいい。わたしにはわたしの生きやすさがある。わたしはわたしが納得して今を生きているのに、勝手に同情されたくないし哀れまれたくない。
ここ数年でそんな思いを強めていたからこそ、本作がLGBTQ+当事者であるウィルとマイクを「かわいそう」な存在と受け取られないように描いていた、ように見えたことが、すごくすごくうれしかったんです。
LGBTQ+と一言でまとめてしまっていますがセクシュアリティは違いますし、たとえ同じセクシュアリティであってもひとりひとり違う。だからウィルとマイクとわたしは当然ながら違います。ふたりの描かれ方をある種自分のことのように捉えてしまうのも乱暴かなぁ……と思わなくもないです。客観的に見るとそう描かれていると思いたいだけかも、とも。
でも、公演を振り返ったときにじわじわと浮かび上がってきた安堵感にも似た喜びは、セクシュアリティに関して開示し始めた今のわたしにとってすごく大切な感情でした。忘れたくない。
前回のペア感想で、井澤木原ペア千秋楽の本編ラスト、ふたりが手をつなぎながら笑っていなかったことに揺るがぬ決意を見いだし、うれしさと心強さを感じたと書きました。これも、自らをLGBTQ+の当事者と自認しているところが大きく作用しています。
社会はまだまだ厳しい。だけど、本当に少しずつだけど進んではいます。
同性パートナーをめぐる話に限ると、今年5月、長崎県大村市が男性カップルの方に「夫(未届)」と記載の住民票を交付しました。今月からは神奈川県横須賀市が同性カップルに対し同様の内容の交付を始めています。他にも東京都や栃木県の一部自治体で記載変更が決まったり検討が始まったりしているそうです。
日本同様に同性婚が認められていない韓国では今月18日、同性パートナーを国民健康保健の被扶養者として登録することを認める最高裁判決が出たばかり。結婚したいパートナーがいる当事者というわけではないですし、自分のセクシュアリティにしっかり向き合い始めて数年のわたしが言及するのは無責任かもしれませんが、本当に少しずつ、少しずつ、進んでいるなぁと思うんです。もちろんすべての性的少数者にとって進んでいる、変わってきているわけではないですし、首を傾げたくなったり怒りたくなったりすること、気づいてほしい知ってほしい! と思うことはたくさんありますが……。
こうして少しずつ少しずつ進んできた先にある「今」は、ウィルとマイクがふたりで生きていくぞ、声を上げていくぞと決意した30年前からつながっていると思うんですね。国は違うけれど、ふたりが海の向こうで声を上げ続けていたから、もしかしたら今も声を上げ続けているから、わたしが生きている今がある。ほんの少し息がしやすくなった社会がある。そんなふうに感じたんです。
そしたら、すごく勇気が湧いてきました。
わたしには本当に小さなことしかできません。連帯を示すとか、これまで通り選挙で意思表示を続けることとか、タイミングを見て自分のセクシュアリティに関することを周囲の人に少しずつ話してみるとか、きっと自分の半径1メートルくらいのことくらい。だけど、そうだとしても動くこと、続けることに意味があるんだと強く思ったんです。あの日、まっすぐ前を見据えるウィルとマイクの姿を捉えながら。
こうして記すこともわたしにとっては大きな一歩です。実は少しドキドキしているし、心無い言葉が届いたらどうしようと怖くもあります。それでも、ミュージカル「GIRLFRIEND」にひとりの人間が勇気づけられたことを伝えたい気持ちのほうが大きかった。それくらいうれしかったし、出合えてよかったし、感謝しているんです。パッと心の中に明かりが灯るような感覚が今も残っています。別の当事者の方はまた違う感想を持つかもしれないけど、少なくともわたしにとっては大事な作品になりました。
随分と長い自分語りになってしまい失礼しました! 読んでくださった方がいたらありがとうございます。
おしまいに
まさか同じ作品の感想を2回にわたってしたためることになるなんて、先月の今ごろは想像もしていませんでした。
どうまとめていいか迷ったりブログに書くには短かったりする感想も含めるとまだまだあります。大千秋楽からもう2週間以上経つのに、感情の鮮度が落ちないことにもずっと心が動き続けていることにも驚いてます。毎日ガルフレのことを考えている。YouTubeでゲネプロや稽古映像をまとめた再生リストを作って毎日見ているので、それもそうか……という気もしますが。笑
ペアのことも作品のことも、書きながら考えを深めていく中でさらに好きが増していった感覚があります。本当に大切な作品に出合えてよかったです。
感想を語っていたりわたしのハマり具合を見たら「気になる」と言ってくれた友達が4、5人いるので再演された暁にはぜひ連れていきたいと今からワクワクしています!
できれば同じキャストで再演してほしいな……木原さんも千秋楽挨拶でそんなようなことをお話されていたし(涙腺が壊れて大泣きしていたので言葉が曖昧)。もちろんキャストを一新しての再演でも喜んで見に行きます。今度は万全の観劇スケジュールを組むぞ……!
曲のアレンジが全然違っているし大好きだから音源もほしいし(女性ボーカルの使い方が本当に好き)、各ウィル、各マイクを見比べて楽しみたいから円盤もほしい……東宝さん、何とかなりませんか……!? と有楽町の方に向かって土下座をする日々はまだ続きそうです。
何かのきっかけで未観劇の方がここまで読んでくださったときのためにゲネプロ映像などを最後に貼っておきます。
ここまでお付き合いいただき本当にありがとうございました。
それでは!
やさしく、鋭く、いとしい夏――ミュージカル「GIRLFRIEND」5組6公演の感想
誰かのファンでもないのに軽い気持ちで劇場へ足を運んでみたら、わたしの1週間はすっかり青い夏に染まってしまった。
シアタークリエにて6月14日から7月3日まで上演されていたミュージカル「GIRLFRIEND」とともに駆け抜けた日々、そしてそこで見たもの、感じたこと、考えたことの記録です。
まさかの37000字超え! たぶん大学時代の卒論以上のボリューム。夢中で書いていたら長くなってしまったので、目次から各公演の感想部分に飛べるようにしています。
当然ですがここでつづっていることはすべて主観です! 整えることよりも湧き出た感情を残すことを優先しているので、論理の飛躍や支離滅裂な文章、解釈違いや見当違いな部分が多々あるかと思いますが、広い心で受け流していただけますと幸いです。
また、7月1日に書き始めたので最初のほうの公演の記憶はわりと曖昧です。公演中はメモを取っていないので間違っている部分があったらごめんなさい!
【目次】
- ミュージカル「GIRLFRIEND」
- 6/26 13:30 ウィル:井澤巧麻さん マイク:萩谷慧悟さん(約3000字)
- 6/28 13:30 ウィル:高橋健介さん マイク:吉高志音さん(約5000字)
- 6/29 13:30 ウィル:島 太星さん マイク:萩谷慧悟さん(約4500字)
- 6/30 13:30 ウィル:井澤巧麻さん マイク:木原瑠生さん(約7000字)
- 7/2 13:30 ウィル:井澤巧麻さん マイク:木原瑠生さん(約5000字)
- 7/3 13:30 ウィル:島 太星さん マイク:吉高志音さん(約9000字)
- おしまいに
ミュージカル「GIRLFRIEND」
CDアルバム「GIRLFRIEND」を中心に、全編マシュー・スウィートの楽曲によって構成されているポップ・ロック・ミュージカル。全米各地の劇場で上演されています。今回が日本初演。
あらすじ(ネタバレあり)
高校に馴染めず将来何をしたいのかわからぬまま悩んでいるウィルと、スポーツ万能で人気者、大学進学のためリンカーンへ旅立つことになっているマイク。ふたりには特に接点がありませんでした。
転機は高校卒業間際のある日。マイクが自ら選曲し録音したカセットテープをウィルに渡したことで交流が始まります。
夜な夜なドライブインシアターに出かけては映画を見て会話を重ね、歌い、互いを知っていくふたり。映画はひとりでしか見たことがない、母親のタバコのにおいのせいで苦労している、父親との折り合いが悪い、母子家庭で経済的な問題がある、ひとりは嫌だ……。時間を共有するうちに、相手の前では装わず自分らしくいられることに気づいたふたりは、想いを通わせ愛を育んでいきました。
しかし、マイクが街を離れる直前に起きた出来事がきっかけで関係が壊れてしまいます。
ウィルの送った手紙がマイクの仲間たちに見つかってしまったのです。必死に言葉を尽くし愛情を示そうとするマイクでしたが、ウィルは「もう無理……」と言い残し立ち去ります。
半年後、年越しを迎えたリンカーン。それぞれの場所で生きていたふたりをつなぐのは、やっぱり音楽で――。
登場人物は、ウィルとマイクのたったふたりだけ。生バンドで演奏者さんが4人いらっしゃいますが、役として発話するのはふたりだけの会話劇です。
それぞれトリプルキャストで、以下が基本のペアとなります。
・ウィル:島 太星さん マイク:吉高志音さん
・ウィル:井澤巧麻さん マイク:木原瑠生さん
公演期間中盤には「シャッフルウィーク」を設け、基本ペア以外のすべての組み合わせで物語を上演していました。
わたしが観劇したのはシャッフルウィーク終盤からです。もう少し早くマイ初日を迎えておけばたくさんの組み合わせを見られたのになぁ……という後悔もありつつ、本当に毎日クリエにいる人間になりかねなかったのであのタイミングでよかったと安堵しています。生まれたときに自制心をどこかへ置いてきた人間。得られなかったものより得られたものを大事に生きていきたい。
冒頭にも書いた通り、わたしは特にどなたかのファンというわけではありません。それなのになぜのめり込んでしまったのか。
それは、化学反応のおもしろさに気づいてしまったから。
ストーリーも登場人物も各回同じですが、演じる方や組み合わせが違うとそれぞれのキャラクター像や関係の立ち上がり方、発展の仕方、色合いが違うんですよね。それがすごくおもしろかった。三者三様のマイク、ウィル、ふたりの関係性が存在していて、それぞれに触れるたびキャラクターやストーリーの解釈が深まったり幅が生まれたり、比べることで全然違う角度からの気づきが得られたりしたんです。
ダブルキャストやトリプルキャスト自体は珍しくないですが、短期間かつふたりきりの演劇でさまざまな組み合わせを拝見する経験がわたしにとってはすごく新鮮でした。
日々ツイッターに感想を書き散らしていたのですが、情報の海に流してしまうには惜しい感情たちだったので、ブログという形であらためてまとめてみます。以下、公演ごとの感想です。
6/26 13:30 ウィル:井澤巧麻さん マイク:萩谷慧悟さん(約3000字)
2022年1月、テニスの王子様とテニミュのオタクになりたてのころ、布教としてテニミュ3rdシーズンの全国立海円盤を見せてもらったことがありました。印象的だったのが柳蓮二役の井澤さんと切原赤也役の前田隆太郎さんのハーモニー。おふたりともいつか機会があれば舞台で見てみたいと思っていた方たちでした。
青学11代目の卒業を見届け、テニミュ、そして青学11代目のオタクとして激走してきた日々を終えた6月上旬のある日、東宝から「GIRLFRIEND」のチケット販売案内メールが届きました。5月にシアタークリエにて「ナビレラ」を観劇した際ポスターを拝見していたので、井澤さんが出演されることは知っていました。
メールを読めば定価よりも割安で見られる公演があるとのこと。これからはテニミュ一色の日々にするのではなくいろいろな経験をしてみようと考えていたところだったので、丁度いいかもしれないと思い、話の内容も知らぬまま観劇しにいこうと決めました(今思うと、すごく「ハッピーニューイヤー!」的な感覚かもしれませんね……!)。
どうやらトリプルキャストで公演によってペアが違うらしい。井澤さんは見るとして、どなたとペアの日にしようかな。迷ったとき目にとまったのが萩谷さんのお名前でした。前事務所所属時代から存じ上げており、個人的にとても馴染みのある方です。萩谷さんのお名前とシアタークリエの組み合わせに思わずこみ上げた懐かしさ……これは決まり!
スケジュールと照らし合わせてもちょうどよかったので、井澤萩谷ペアの日にチケットを取りました。当日は井澤さんメインで観劇。
井澤萩谷ペアは「甘酸っぱさを感じる10代の恋愛」。
萩谷マイクはテープを渡す前からウィルのことが恋愛的な意味で気になっていて、井澤ウィルもマイクをアイドル的な存在として捉えつつわりと最初から好意を抱いていたように見えました。だから恋愛モードに入るのが早かった。わたしが観劇したペアの中だと最速かも……?
「Winona」を歌うマイクをウィルがビデオカメラで撮影し、その映像が舞台上部のモニターに映し出される、劇中で一、二を争うほど好きな場面のとき、撮り終えた井澤ウィルが自分のニコニコ笑顔を映してからカメラを置くんです。そのときの表情が、学校で人気のある男の子と出かけられてうれしい、というより、好きな人とデートできてうれしい、という表情に見えたんですよね。そして自分の表情もしっかり映したのは、デートの大切な瞬間、ぼくとマイクの大切な思い出を収めたからなのかなぁと……!
レンズ越しに愛情を伝えようとする萩谷マイクの熱量に対して、素直に心を委ねている井澤ウィル。こういう受け取り方をしたこともあって、甘味と酸味のバランスがよいイチゴのような恋愛をしているように見えました。ちゃんと相手に、恋愛に夢中になっている。ほんのりと大人の香りを纏いつつあるふたりだったからこそ醸し出せた味わいだったんだろうなぁと思います。ふたりで恋をしながら大人になっていく感じとでもいいましょうか。
後になってみなさんそれぞれ基本ペアの相手に合うようにキャラクターをチューニングしていたんだろうな、と思ったのですが、それはそれとして最初に見た井澤萩谷ペアはわりと正統派(?)な恋愛が生み出されていたふたりだったと思うので、最初に観られてよかったです。
萩谷さんの厚め(?)の手と、井澤さんの骨ばった筋っぽい手との対比が色っぽくて印象的でした。萩谷マイクはがっつり運動楽しんでいる頑丈な手をしているし、井澤ウィルはマイクの好きな「細くて長い腕」そのものだし……(マイクが「細くて長い腕が好きだ」と言ったときに自分の腕をこっそり見るウィル、かわいいですよね笑)。
これは全体の話になってしまうのですが、マイクキャストさんは骨のフレームがしっかりめの方、ウィルキャストさんは長身で薄め?の方で揃えていらっしゃるように感じました。フォルムがなんとなく揃っているとトリプルキャストでシャッフルしたときもそれほど違和感なく「ウィル」「マイク」として見られますし、すばらしい気配りだなぁと僭越ながら感動してしまいました。偶然そうなったのかもしれないので、考えすぎかも……。
ペアの話に戻します。
萩谷さんはダンスでプロムキングの余裕を感じられたのがとっても素敵でした!
「Looking At the Sun」で踊るときが顕著でしたが、音の取り方が余裕たっぷりでそれがそのままプロムキングとしての余裕になっていました。関節を何個持っているの? と聞きたくなるくらいなめらかで、音と遊んでいて、グルーヴ感がある。生き生きと臆面もなく自分を表現するマイクからは自信しか感じないですし、こんなにも太陽みたいな人は学校の人気者になるよなぁと、納得感を与えてくれるダンスでした。本当にエネルギッシュだった。夏そのものみたいなマイク。全身で音に乗っているからか腰をくねらせたりするのですが、嫌な感じが一切なくてセクシーなのにヘルシーでした。すごい。
90年代のアメリカに暮らす男の子を知らないけれど、90年代の高校生ってこんな感じだよと説明されても普通に納得できますし、マイクという人間のテンポ感や性格がビシバシ伝わってくるダンスでした。本当にかっこいい~~!
ぐいぐい積極的で明るくて、自分自身が太陽で眩しいからこそ見えていないものがあるマイクという印象。
井澤さんは手紙がバレたシーンでマイクに抱きしめられているときの眼差しがとっても印象的で大好きです。地元に残る自分の性的指向が思わぬ形で明かされてしまったこと、マイクはリンカーンへ行ってしまうこと、「大学に行くのは遅いかな?」をめぐるやり取りで感じたマイクと自分のどうしようもない違い……さまざまな感情が宿った虚ろな目をしていたんですよね。キスされても抱きしめられても掬い上げられない心の澱が見えるようで、あまりに胸が苦しかったです。
ここの場面の井澤さんの目の演技が刺さりすぎて「もう一度見たい!」と、終演後すぐに7/2昼公演のチケットを取ってしまったほどです……罪深い……!
控えめでまっさらで、だけど恋愛にはちゃんと興味があって無垢というわけでもないウィルという印象。
心がフッ軽なことの弊害(?)なのか、あらすじも読まずにチケットを取り劇場の椅子に座ってしまいました。そのことを今になってかなり後悔しています。見方がかなり散漫になってしまった……! ストーリーを頭に入れておくだけでも、もう少し違った見方ができたかも……そもそも一度きりの予定だったから無意味なたられば……。
公演後、セトリが知りたいのと収録されているであろうインタビューが読みたくてパンフレットを購入。そこで基本ペアがあることを知りました。
そして、それぞれの役の解釈がわりと違うことを知り、それなら井澤萩谷ペア以外も見てみたい……と思ってしまい…………。
木原さんは2日に見られるけど他のお三方……と思っていたら28日マチネに高橋吉高ペア公演があるじゃないですか! しかもこれまた割安な当日引換券が残っている。テニミュのおかげで当日引換券というものにワクワクできるオタクになったので迷わず購入。この日のわたしは、歌声に恋することになるなんて知らなかった……!
27日はマチソワとも都合がつかなかったのでお休み(このことに対しても後から暴れ回りたくなるほどの悔しさを覚えることになる)。
6/28 13:30 ウィル:高橋健介さん マイク:吉高志音さん(約5000字)
高橋さんも吉高さんも初めましてのおふたり。お名前は存じ上げていましたが、演技や歌を見聞きしたことはありませんでした。なので、この日をすごく楽しみにしていました。それぞれのウィル像、マイク像が見られることも、おふたりがどんな役者さんなのかうかがい知れることも。半々で観劇したつもりですが吉高さん寄りになってた気がします。
高橋吉高ペアは「ロマンティックだけど薄氷の上を歩くような恋愛」。
吉高マイクも最初からウィルが恋愛的な意味で気になっているのですが、太陽の光をまとってグイグイいく感じでもなく、わりとウィルの様子をうかがいつつ手札を選んでいるように見えました。
高橋ウィルは人生に対する諦めが根底にあって、自分の中にわりと閉じこもりがち。たぶんマイクが気を抜いたらすぐ内側に戻ってしまう。かなり繊細。そして吉高マイクはお構いなしに壁をぶち破っていくタイプでもなく……だけど手を取っていたくて……。このあたりのバランスが緊張感につながっていたように感じました。本当に主導権を握っているのはどっちだろう? なんて考えてみたり。
ふとした瞬間に壊れてしまいそうな危うさをはらんでいたから、ウィルが別れを切り出したシーンはそこに至ってしまった事実が胸に迫ってきて涙が出ました。遅かれ早かれそうなっていたかもしれないけど、やっぱりそうなってしまったか……と。
だけど緊張感だけが話を貫いていたわけではなく、しっかりとロマンティックさも感じました。
初めてドライブインシアターに出かけたとき、マイクが映画そっちのけでウィルの横顔を見ていたり、星空の下で語り合うシーンで向き合ったウィルに彼の魅力を伝えていくとき、髪に触れ軽く撫で、顔に少しずつ触れていったり、引っ越し前日に夜を共にした後、起き上がったマイクが寝ているウィルの膝あたりに優しくぽんぽんと触れたり……。
吉高マイクは最初からずっと恋愛アクセル全開でギュンギュンに踏みまくっていて、動きから「好き」があふれていました。そんなところが、高橋吉高ペアのロマンティックさを演出していたんじゃないかと思っています。
不安定なロマンティックさがすごくクセになるペアでした。
吉高さんは、歌声に恋しました。ごめんなさい、吉高マイクの印象について書く前にこれを言いたくて!
1曲目「I’ve Been Waiting」の出だし「君は言ったよね」の「君」で心奪われました。ロマンティックで甘やかなのにくどさが一切なく、さらりと透き通って清らかで穏やかかつ繊細な歌声。青々とした庭園が目の前に広がり、爽やかな風が心にすっと吹き抜けました。
琴線に触れるどころか琴線をかき鳴らしてきた歌声に大混乱。「君」を聞いた瞬間に、あ、今日来てよかった、とすでに満足してしまうほど魅了されました。
全員分の全ての音源を残してほしいことは大前提として、中でもとりわけ吉高マイクの「Winona」が残らないのは少なくともわたしの人生にとっては大きな損失です……。永遠にしたい……あの歌声がたどる「Winona」を星座にしたいよーーー!!!!!!
吉高マイクは、マイクの持つ心の柔らかな部分、ウィルにしか見せられない部分がそのまま歌声になっているような気がして、それがとっても素敵でした! ウィルにしか向けられないような歌声が、ウィルを想う歌詞を歌うなんてもう鬼に金棒ですよね。これも歌声の印象に引っ張られている気はしますが、モテるのに嫌味がない爽やかなお坊ちゃまマイクだと感じました。少女漫画に出てきそう。あまりに紳士。親しみやすい高嶺の花。
また、結構繊細な印象も受けました。太陽は太陽でも夕日に近い。
初めてウィルとドライブインシアターに出かけたとき、ふたつ目の告白をする前にまぶたをぎゅっと閉じたりしていて切り出すのに結構緊張していたんですよね。映画を見たフリをしてくれているウィルに気づかれないように気合を入れていた。
吉高マイクは、社会生活を送る中で無意識か意識的にかわかりませんが「こうあるべき」という考えに囚われてきたと思うんです。萩谷マイク、木原マイクもその要素が少なからずあるけれど、吉高マイクはそれを最も強く感じました。
人気者だったらガールフレンドがいたほうがいいと思う。
同性のウィルに惹かれているし傷つけたくないけど周りの目はやっぱり気になる。
父親に医学生へのルートを敷かれてうんざりしているけど大学に行かない選択肢はない。
これは全部、マイク自身が学校やもっと広い社会の中で「自分がどう見られているか、そして自分は何が求められているか」ということを意識しているからこその振る舞いだと思うんです。本当にしたいことを自ら抑え込んできた部分もある。それは、そのほうが生きやすいから。
だから、ウィルに対して本当の自分を明かすことはすごく緊張したんだろうな、と思うんですよね。明かすのがたとえほんの少し、一端だとしても。
ウィルだから明かしたいと思ったけれど、ウィルだからこそ受け止めてもらえなかったらどうしようと不安になったはず。人気者としてのマイクを求めていたら、好きな人に引かれてしまったら……。吉高マイクは、恐怖にも似た感情や思考が体中を駆け巡っているように見えました。
不安や恐怖といったネガティブな感情があったからこそ、本当の自分を明かしても引かれず、むしろウィルも自分らしさを出してくれたことにすごく安心したんじゃないかと思いました。想いが通じ合ってる! うれしい! というよりは、心を解放できる相手が存在してくれてほっとする、安心する、といったところでしょうか。ウィルの存在に救われたのかもしれません。
手紙がバレてしまったシーンでのキスも印象に残っています。これまでずっと紳士だったのにウィルを失ってしまうことへの恐怖に囚われてしまったのか、自分の感情をぶつけるようなキスをしていたんです。唇を重ねるというより押し付けているようにも見えました。キスをして向き合っているけれど、ウィルの感情が全く眼中にない。自分がウィルを失いたくないという一心で言葉をつなげているように見え、ウィルの心に届かないのも当然だよな……という納得感がありました。ここの焦ったようなキス、マイクの未熟さやウィルとのすれ違いを浮き彫りにしていてすごくよかったです。
あと表情の変化にたくさん心動かされました。ウィルが投げ捨てていったシャツを顔に押し付ける前の苦悶の表情なんかは本当に胸が切り刻まれるようで……高橋ウィルが「諦め」に身を置くことになった流れと合わせて涙腺にかなり来ました。
穏やかな太陽で誰からも好かれるけど、自分が自分に雁字搦めにされてどこか苦しさが漂うし、お坊ちゃまゆえに見えない部分があるマイクという印象。
高橋ウィルは最初に書いたことと重複しますが、人生に対する諦めが根底に流れているところがとっても素敵でした!
「大学に行くのは遅いかな」まではそれほど感じさせなかったのに、あのやり取り以降一気に諦めがぶり返してきたような表情に、足元がガラガラと崩れ落ちていく感覚になったことを覚えています。マイクとの間にいかんともしがたい溝が生まれてしまった、取り返しのつかないことが起きたんだ、とマイクに対しても観客に対しても強い喪失感を与える演技だったように感じました。
また、冒頭の「ぼくみたいなやつ」というセリフは同性愛者であることを指すと解釈しているのですが、高橋ウィルはそれだけではなく、将来の目標や夢もしっかり定まっていない、どうなりたいのかわかっていない、家庭は経済的にそれほど余裕がない、今の自分すべてを指していたのかもしれないと思っています。「このあたりでは」とわりと範囲を広めにとっているので後者の考え方は飛躍している気もしますが。
解釈に幅を持たせてもらえたシリーズはもうひとつあります「Winona」のシーンでカメラを構える前、マイクの隣で歌を聞いているときに少しだけ小さく口の動きだけで歌っていたんです。マイクがあげたカセットテープには「GIRLFRIEND」収録曲が入っていると踏んでいるので、そうなるとウィルもこの曲を聞いているんですよね。聞いたかどうか問われたときウィルは「2回聞いた」と答えていましたが、少しでも口ずさめるということは実は2回以上聞いてたりするんじゃない……? なんて想像が膨らみました。解釈とは少しずれてしまいましたね。笑
「Winona」つながりでもうひとつ。ここで印象に残ったのがウィルの行動でした。井澤ウィルはカメラを置くときレンズに向けて笑いかけてから置いていたのですが、高橋ウィルは特にレンズに関心は寄越さず無造作に置いていたんですね。その違いがすっごく面白かった!
高橋ウィルにとって吉高マイクはアイドル的な存在で、それは「Winona」を歌われたときでも変わっていない。好意はあるけど恋愛的な意味で自分を好きになってもらえると思ってないし、ましてやマイクが自分に同じような好意を寄せるなんて夢のまた夢、なんて思っているから、高橋ウィルの中で吉高マイクはまだまだアイドル。
だから、ビデオカメラで映したのも単純にアイドルのような彼を映すのが楽しかったのかな? なんて解釈しました。井澤ウィルが「ぼくたちの大切な思い出」なら、高橋ウィルは「ぼくの大切な思い出」な気がします。「ぼくたち」と思っても全然構わないのに……! マイクのウィルに対する熱烈な想いを感じているからすごくもどかしかった……でもそれがまたよい……。
翌日にすべてのウィルをコンプリートして思ったのですが、高橋ウィルは大きく温度感を分けたときにクールなほう、寒色に分類されるウィルだと感じました。井澤ウィル、島ウィルはウォームなほう、暖色。そう思うと「Winona」で無造作にカメラを置いたのも、マイクとの時間の捉え方というより本人の性格的なものなのかなぁという気もしてきますね。本当にいろいろな見方ができておもしろい!
あと、クールな分マイクからの連絡に「やったぁ!」と笑顔で喜んでいたり「細くて長い腕が好き」というマイクの言葉につい自分の腕を見てしまったりする挙動のキュートさが際立っていました。パッと見ではわかりづらいけど実はかわいらしい部分を持っていて、そこに気づいたら坂道を転げ落ちるようにハマっていってしまいそうなウィルだなぁ……なんて思います。
スケジュールや観劇スタイルの都合で高橋ウィルを2回見ることは叶わなかったのですが、クールなウィルを見られたことで井澤ウィルや島ウィルの温度感に気づけましたし、ウィルそのものやウィルとマイクの関係性を考えるための物差しが増えたので一度でも見られて本当によかったです。だけどやっぱりもう一度見てみたかったな……特に基本ペアの萩谷マイクと合わさったとき、クールな高橋ウィルの中にどんなふうにして愛おしさが募っていくのか見てみたかったです。
高橋ウィルは、ひとりでも生きていけるけどそれは他人を諦めているからであって、孤独でどこか警戒心の強いウィルという印象。こうして振り返ると、最後にマイクの手を取れてよかったなぁ……としみじみしてしまいますね。マイクと出会ったことで一番大きく変わったのは高橋ウィルなのかもしれません。もう人生を諦めないでほしいし、ずっと幸せでいてほしい。
高橋吉高ペアを観劇したことにより、トリプルキャストの魔力に完全に取り込まれてしまいました。井澤萩谷ペアとの比較があまりにおもしろすぎる。
そして「Winona」でのウィルについて考えていたら、島ウィルはどんなお芝居をしているのかな、という疑問がわいてしまいました。
せっかくなら全キャストのお芝居を見ておきたい、というかガルフレめちゃくちゃ好きな演目だから1回でも多く観劇したい、と思ったため29、30日のチケットを押さえました。30日は元々夕方から別のミュージカルを観劇する予定があったので悩みましたが、ガルフレマチネだけならハシゴできそうだったのでチケット確保! 27日のスケジュールがどうにもならず、絶対に好きになる予感しかしない井澤吉高ペアを見逃したことを深く深く後悔したので、行けるところは1公演たりとも逃したくなかったんです。
5年ぶり2回目の現場ハシゴ。ハシゴしてでも見たいと思うくらいガルフレが刺さってしまったみたいです。そうした作品に出合えて幸せ!
6/29 13:30 ウィル:島 太星さん マイク:萩谷慧悟さん(約4500字)
島さんは本当に初めましてでした! 芸能事情に疎いこともありお名前も初めてうかがったので、もう本当に新しい出会い。まっさらな状態で観劇に臨みました。萩谷さんは前回気づけなかったところを観られたらいいな、違いなんかも気づけたらいいな、と思いつつ。萩谷さんと島さん半々ずつくらいで観劇。
島萩谷ペアは「太陽と『太陽』が触れ合ってしまった恋愛」。
萩谷マイクは今回も最初から恋愛スイッチオンのギラギラ輝く太陽だったのですが、島ウィルが恋愛の「れ」の字も知らなさそうなほど無垢で無邪気なワンコみたいだったので、最初は井澤ウィルよりも友情色があるように感じました。
おもしろかったのが島ウィルも質の違う太陽として存在していたことです。井澤ウィルが平穏、高橋ウィルが冷静なら、島ウィルは溌溂。ウィルの中で最も明るい。
太陽と太陽の日々だから、それはもうべらぼうに眩しくて! 「Girlfriend」を熱唱しながらドライブするシーンの輝きったらなかったです。ふたりの間に恋愛感情が存在せず周囲からの目を気にせずいられるとしたら、大通りでだって窓開けて熱唱できてしまいそう。夏空のように突き抜けた晴れやかさを持っていました。
浮いていることなんて気にせず自分の楽しみたい世界を闊歩する島ウィル。そんな彼は、みんなの太陽として生きている萩谷マイクにとっての「太陽」だったんだろうなと感じさせました。
ただ、島ウィルはカギカッコ付きの太陽なんですよね。みんなを照らす太陽ではなくて自分の世界を照らすための太陽。溌溂としてるし真っ白な光を纏っているけれど、自分のための光だから光量は強くない。ど真ん中でみんなを照らす萩谷マイクに近づきすぎると、圧倒的な眩しさに飲み込まれてしまうんです。飲み込まれるというより、焦げ付き焼け落ちてしまう。太陽が太陽でいられなくなってしまう。
思い出が夏のエネルギーを抱き込んでキラキラ輝いているからこそ、島ウィルの絞り出すような「もう無理」という言葉が余計に切なく響きました。とてもつらかった……。限界を迎えてこぼれ落ちた言葉からは、マイクのことが大事だけれどそれ以上に苦しさや虚しさが上回ってしまったことへの悲しさのようなものを感じました。つらい。
萩谷マイクにとっての太陽は島ウィルで、彼の存在にきっとすごく救われていたと思うんです。だけど、輝きが強すぎて島ウィルが自分と同じ「太陽」ではないことに気づけなかった。それが見えなくて、大切で愛している人を傷つけてしまった。無意識のうちに傷つけてしまっていたマイクの心情を考えると、それもすごく悲しかったです。
家庭環境の違いは彼らにはどうしようもできないし、それによって培われた価値観の違いを擦り合わせることだってきっと簡単じゃない。青春時代から遠く離れたところで見つめているわたしは「こうしたらいい」「ああしたらよかったのに」といくらでも言えますが、青い日々の真っ只中にいる彼らに同じ対応を求めるのは酷な気もします。
出会わなければよかった、と一度は考えてしまいそうなペアだったので太陽と「太陽」が「触れ合ってしまった」恋愛のように感じました。
萩谷マイクは恋愛巧者ぶりがとっても素敵でした!
井澤ウィルに対する積極性が一緒にさらに恋愛を楽しむためのものだとしたら、同級生だけど弟感の強い島ウィルに対する積極性は、世間とは少し離れて自分の世界に生きる彼を恋愛へ引き込むためのものという感じでしょうか。萩谷マイクの恋愛巧者ぶりがより一層映えて見えました。
特に「Winona」のときの熱視線が本当にすごかった……レンズ越しに島ウィルの心をごっそり奪い取ってやるといわんばかりの熱烈なアピール! 言葉よりも雄弁な眼差し。モテる人間の本気を絶え間なく浴びせられているような気持ちになり、ウィルではないのにドキドキしてしまいました。いや、きっとあの瞬間観客の全員がマイクに恋していた。
星空のシーン? 「Evangeline」のときだったかな……と思うのですが、照れ隠しなのか少しちょけた感じで頭をブンブン左右に振り続ける島ウィルの頭にそっと右手を添えて制止しつつ、ロマンティックなモードへと一気に引き込む手練れ感もすごかったです! 言葉じゃなくて動きですべてを伝えてしまう。
恋愛巧者感について、井澤ウィルのときはあまり意識していませんでしたし、ここまで「ウィルを早く恋愛モードに引き込むぞ!」というある種の必死さは発動していなかったような気がします。井澤萩谷ペアはわりと最初から恋愛モードに入っていたのでマイクがぐいぐいと自らのフィールドへ引っ張る必要はあまりなく、もどかしさや照れを覚えつつ想いを分け合うのがメインだった。やっぱり甘味と酸味のバランスが絶妙なんです。
ですが、島ウィルは弟感が強い。恋愛対象として意識させるの結構大変なんじゃ……? なんて考えてしまうほど。マイクと付き合うような女の子たちはきっと恋愛の進め方を知っていたと思うのですが、島ウィルはそうじゃない。自分の周囲に存在する当たり前とは違う場所で生きている。だけど心底惹かれていて、心を渡し合いたい……と考えたとしたら、こちらがあてられてしまうほどの熱量をウィルにぶつけるのも無理はないですよね。だってそれほどまでに好きな相手なんですから。絶対に手放したくないし、誰にも何にも譲りたくない。ウィルの手を取るのは自分でありたい。絶対に振り向いてほしい。
萩谷マイクの恋愛巧者ぶりは、島ウィルとの温度感の対比によって浮かび上がってきました。とてもおもしろかったです。
そして、萩谷マイクの積極性について考えたとき、基本ペアが高橋ウィルだったことに思い至りました。高橋ウィルは基本的に諦念が流れている人。島ウィルとはまた違ったベクトルで他人との恋愛と離れたところにいるし、扉をノックして鍵を開けてもらってお話して帰ってまた扉をノックして……の繰り返しでやっと心通わせることができる。すごく繊細。高橋ウィルと親しくなり恋愛関係にまで発展させるには熱意が必要なんです。そう思ったとき、萩谷マイクの積極性の高さが腑に落ちました。
恋愛巧者でお兄ちゃん感がありウィルの手を引いていたけれど、その意識が強かったがゆえにウィルのことが見えなくなったマイクという印象でした。
島ウィルは、とびっきり明るくて無邪気でワンコのようなところが素敵でした!
先述の通り、井澤ウィルが平穏、高橋ウィルが冷静なら島ウィルは溌溂という言葉がぴったりで、日々にワクワクドキドキしている。月へだって飛んでいけそう。「僕の人生はミュージカルなんじゃないかって思う」というセリフも、現実から逃避するためではなく本当に心の底から出た言葉なんだろうなと思わせる、そんなウィルでした。びっくり箱のように次に何が飛び出してくるかわからなくて、一緒に過ごしたくなってしまう。どうして学校に馴染めないんでしょう。
10代って、夢を見たり語ったり、空想の世界をおもしろがってみたり、純粋であったりすることを恥ずかしい、ダサいと感じる人が少なくない年代だと思うんです。本当はそうしたことがいいな、好きだなと思っていても、子どもっぽい気がするし早く大人になりたいから遠ざける。好きじゃないふりをする。島ウィルは、飛び抜けた純粋さを持っていて空想上の物事について考えるのがとても好きなウィルに見えました。サンタクロースがクリスマスに世界中を飛び回っているとは信じていないけど、そういう世界があったら楽しいと思うし空想するのも話すのも好きそう。
そういうウィルの「好き」は夢や空想を遠ざけたがる10代の空間では浮いてしまったし、純度の高い瞳も疎まれてしまったんじゃないかと思います。
だからこそ、自分を疎ましく思うどころか興味を持ってくれる、「俺も音楽が好きなんだ」と共感してくれたことが、飛び上がるほどうれしかったのではないでしょうか。しかもそれが男の子だなんて夢のようですよね。
とにかく島ウィルは無邪気でかわいくて! ふんわりとした天然っぽさが魅力的でした。
買い物へ行こうと誘いにきたマイクに気づいたときは、素で驚いていそうな感じで微笑ましさについ客席側もクスクス。「チキン野郎!」とマイクを煽るときのニワトリの声真似がうますぎる……! カートに乗りふたりで遊んだ後わちゃわちゃしているとき、マイクのことを「チキン野郎!」とからかっていた(?)のがすごいナチュラルで、友達っぽい軽やかさを感じられてよかったです。
星空の下で「顔を見せて」と言われたときにマイクの手のひらを自分の顔にべしん!と押し当てたときもニマニマしてしまいました。井澤ウィルと高橋ウィルがマイクの手を取って頬に沿わせてロマンティックなムードを醸し出していたので、茶化すような反応にニマニマしてしまいました。初めて見るパターンに「え!」と驚きつつ新鮮で! 島ウィルの純朴さを考えると、ここでワンクッション置きたくなるのも自然に感じられました。
萩谷マイクも島ウィルのおもしろさの積み重ね(?)に引っ張られたのか「お前はかっこいい」の褒めていく流れのとき、本来「おもしろい」と言うべきところが「おもろい!」になっていましたもんね。笑 それがまた、生きた会話に思えてとてもよかったです。これぞ演劇の醍醐味。相手のテンポや空気感を受けて出方を変えていき、それらの連なりでその回だけの空気が出来上がっていくんですよね。
恋愛モードに引き込むぞ! と燃えていた萩谷マイクが発したフランクな「おもろい!」、すごくよかったなぁ。島ウィルの純粋さとか天然な感じ、それらから生まれる言動、学校では浮く要素になっていただろう物事含め、ウィルの存在すべてをまるっと肯定しているように思えて。それに、マイクも素のままでウィルに接しているんだなぁと感じられました。この回だけだったのか他の回もなのかはわかりませんが、この回だけだとしたらすごく素敵な偶然に出合えてラッキーでした。この流れ、本当に好きです。
島ウィルの話に戻しますね。
手紙がバレたシーンで萩谷マイクをきつく抱きしめ返しているのも印象的でした。こちらも初めてのパターン。ぎゅっとしがみつくような感じで、顔もくしゃくしゃになっていたような記憶があります。子どものように泣きそうになっている、まぶたをぎゅっと閉じて泣くのを我慢しているようなウィルは新鮮でしたが、これも島ウィルだとすごく自然に見えたんですよね。どこか感じる幼さも萩谷マイクとの兄弟感あってのことでしょうか。
本当は離れたくなくて仕方なくて、今までもずっと「リンカーンへ行かないで、ここに残って」と言いたくて言いたくてたまらなかったけど我慢してきたものが、あの瞬間に全身からあふれ出てしまったんだろうな……と思います。島萩谷ペアは夏の日々がこの世の透明な輝きを詰め込んだような時間だったから、本当に前半と後半のギャップが苦しい。
この回を観劇して、みなさんきっと基本ペアの相手に合わせてキャラクター像を作り上げてるんだろうなという気づきが得られました。翌日の井澤木原ペアの観劇がさらに楽しみになったのを覚えています。
また、シャッフルウィークを少しでも楽しめてよかったとも思いました。異なる相手でチューニングしたテンポ同士の重なりはまた違ったリズム感を生み出します。同じストーリーでもひとつとして同じテンポの曲がないので、何度観劇しても飽きがこない。飽きがこないどころか新たな発見がたくさんある。
同じキャストに対する解釈が深化していく経験もすごく楽しいけれど、こうして違うキャストを見て解釈が進化していく経験もすごく楽しく魅力的だなぁと思いました。
6/30 13:30 ウィル:井澤巧麻さん マイク:木原瑠生さん(約7000字)
木原さんは初めましてでした! お名前は存じ上げていましたが、パフォーマンスを拝見するのは初めて。
そして初の基本ペア回観劇。井澤さんは萩谷さんのときとどう違うのかな? 基本ペアの空気感ってどんな感じなのかな? とワクワクドキドキしながら着席しました。木原さんメインで観劇。
井澤木原ペアは「不器用なソウルメイトたちの恋愛」。
まっすぐさ、それゆえに漂う危うさ、ふたりの温度感など含めて考えたときに、わたしがこの日までに見たペアの中で最も高校生らしさ、フラットな同級生らしさを感じました。
親友でありバディであり、パートナーであり、心の理解者でありソウルメイト。なんだってお前と一緒なら楽しいし、なんだってお前と一緒にやってみたい。そういう温度だから恋愛にも発展したんじゃないかなと解釈しています。出会う運命だった人に出会ったら、もうその人以外ありえないんですよね、全部。ダチ感と恋愛感情が同居しているところがとっっっても好きです。
友達期間があるように見えたのはこのペアが初めて! これは、木原マイクがわりと最初は「ウィルと仲良くなってみたいな」から入ってるように見えたことが大きいです。
初めてドライブインシアターへ出かけたとき、萩谷マイクと吉高マイクはウィルの横顔をかなり見ています。好きな子がどんなふうにこの映画を見てるのか気になって仕方ない! というのが目の動きにすごく出ている。「ここで愛のテーマが流れる」と話しスクリーンに夢中になってるウィルの横顔に夢中。映画どころではない。
だけど、木原マイクはあまりウィルに視線を向けません。愛のテーマのくだりの後、一緒にスクリーンを見ていたんです。ウィル自身に対してもちろん興味はあるけど、それと同じくらいウィルが見ている世界、ウィルの中に広がる世界観に興味津々なのかな?と感じました。「友達になりたいと思ってウィルに声をかけた」マイクなのではないでしょうか。
初めてドライブインシアターに出かけてウィルと別れた後、緊張の糸が一気にほどけたかのように大きく息を吐いてからはにかんでいたので、恋愛スタートなのかな……? とも思いつつ。本当に仲良くなってみたい相手との時間を過ごせてうれしいとか、本当に仲良くなりたい相手だからこそ緊張していたとか、友達というカテゴリーではなく恋愛的な意味で好きだと感じたとか、いろいろな可能性を考えてみたくなる場面です。
木原マイクが友情モードから入ったからか、井澤ウィルも高校生っぽさが溢れていました。同級生とバカやってる感じがあったというか、まだまだ子どもらしさが残るウィル! おふざけもおふざけとして楽しんじゃう。「Looking At the Sun」冒頭でマイクの後ろをちょけながらついて回るし、星空の下で「顔を見せて」と言われたときはマイクの手のひらを自分の顔正面にぶつけ、ロマンティックなムードもわざと壊しにいってみたりする。萩谷マイクと対峙したときはマイクの手を自分の顔に添わせるように置いていたので、やっぱり温度感が違うんですよね。島萩谷ペアよりもさらに友情の色が強かった気がします。
あれ、井澤ウィルと木原マイクって実はもっと前から関わりがあったりする? 本当にカセットテープ渡したときが始まり? なんて錯覚してしまうほどに仲が良いふたりは、ソウルメイトのように見えました。
恋愛感情にまつわる、古代ギリシャのとある神話があります。
元々人間はふたりでひとつ、背中合わせの球体として生きていました。しかし、あまりに強く完璧で生意気だったため神・ゼウスによって半分に分けられてしまいます。どこかへ行ってしまった自分の半身を探し求め、再びひとつにならんとすることが恋愛の起源だ、というのです。ちなみにこの神話は半身が異性であれば異性愛者、同性であれば同性愛者になるのではないか、とも述べています。
マイクはウィルに言いました。ウィルがいると完璧だと。
これまでのペアでも同じセリフを聞いてきたのですが「完璧」の意味が一番スムーズに頭の中に入ってきました。井澤木原ペアを見ているうちに上記の説を思い出していたことが作用していると思います。
ロマンティックなムードを作り出すとか自分たちの関係に必然性を持たせるとかそういう意図はなく、ただシンプルにウィルという存在、そしてウィルと過ごす時間がマイクの背中にぴたりと合った。そんな実感が素直に言葉になったのではないでしょうか。
そんなふたりが夜空の下で向き合い「僕は君で、君は僕だ」と歌ったとき、魂の共鳴を強く感じました。
もちろん恋愛対象として好き。だけど、それ以上にお互いの魂の存在に救われている。君がいて、君と世界を分け合えて本当によかった。
初めて交わしたキスは欲動によるものというより、今まで誰にも見せられなかった、自分ひとりで大切にしてきたものを、体に触れることで相手に分け与えたい、切実な安堵感を共有したいという感情によるものに見えました。
木原マイクが井澤ウィルの存在に救われていることは言わずもがな、井澤ウィルも木原マイクの存在に救われているんですよね。ふたりでひとつ。だから「僕は君で、君は僕」と歌い合っていることが自然の流れに感じられましたし、心にすごく刺さりました。
そして、フランクな関係性だからこそ甘え、甘えられという構図が生まれたのかもしれません。木原マイクの無自覚な甘えを受け止める井澤ウィル。だけど木原マイクは受け止めてもらっていることに気づいていない。もしかしたら、甘えていることにすら。
ウィルが外向的な性格だったり別のコミュニティに所属したりしていたのなら、受け止め抱えたもの、受け止めたことによって生まれた感情を発散できたかもしれません。だけどそうじゃないから内側に溜め込むことしかできないんですよね。コップに注げる水の量は決まっています。オーバーしてしまえばあとは溢れてしまうだけ。
「もう無理」は井澤ウィルが受け止めて受け止めて、受け止め続けた果てに迎えた限界。魂が響き合った相手を拒絶しなければならなかった井澤ウィルも、魂が響き合った相手に拒絶されてしまった木原ウィルもそれぞれに苦しくて……このふたりの別離は、まさに半身を引き裂かれるような痛みがありました。
ウィルが立ち去った後、木原マイクが涙しているように見えてそれがまだ失ったものの大きさを感じさせて切なかったです。
ほんの少しでも相手のことを見られていたなら、ほんの少しでも本音をこぼせていたなら、きっと別れを経験せずに済んだはず。荒療治をしなくても対話で乗り越えられたはず。だけどうまく立ち回れなかった。そんなところまで一緒だった。なので、「不器用なソウルメイトたちの恋愛」だと感じました。
もっとも、このふたりは依存したりし合ったりするような関係に一度ハサミを入れる必要があったと思うので、この先ずっと一緒に生きていくためにも別れは大事なステップだったと思います。「君は僕、僕は君」は魂の共鳴でありながら相手の理想化にもつながっていった。物理的、そして精神的に距離を置くことでお互いが自立できたからこそ、リンカーンで偶然再会したときに迷わず互いの手を取れたのではないでしょうか。
木原マイクは、ふとした瞬間に見せる危うさ、「静」の部分がとても素敵でした!
木原さんはハッキリした顔立ちをされていて、人気者で明るいマイクという役柄にぴったりだなぁと感じていました。観劇前、もしかしたら一番積極的なマイクだったりするのかも、と想像していたほどです。
蓋を開けてびっくり。芯があるのに、だからこそ突然姿を消してしまいそうな危うさがふとした瞬間に顔を出してくる……!
それを最も感じたのが「We’re the Same」を歌うシーンです。井澤ウィルから切実さを含んだ声と表情で「月に行かないで」と訴えかけられたとき、穏やかに軽く笑って歌い続けたんです。その笑みが、きっとウィルにしか見せてこなかった心の柔い部分がにじみ出たものなんじゃないかと思ってしまうほど儚くて、だけど「こうする」と決めたらそれが例え何かを失う選択であっても絶対に覆すことはないんだろうなと感じさせる芯の強さもあって……。
すごく極端ですし話の展開ではありえないのですが、命を失うことすら厭わない危うさを感じたんです。シャボン玉や桜を見たときに感じる儚さというよりは、沈む間際の真夏の夕日を見たときの感覚に近いです。まぶたを開けていられないほど眩しくて濃い橙色は命の温度そのもののようなのに、すべて燃え尽きる寸前の最後のエネルギーの放出に感じられるから、今そこに「ある」ということより「失ってしまう」ことに意識が向く。きれいだな、と思うより、いかないで、と願ってしまう。この場面の木原マイクを見てそんな感覚を思い出しました。
意志があまりにも強くてそれゆえ危うさを孕む人だから、ウィルの手の届かない場所へあっという間に飛んでいってしまいそうで「月に行かないで」というワードチョイスになることにもすごく納得感がありました。わたしはウィルの言葉を受けた反応を見て初めて危うさなどを感じましたが、作中では描かれないたくさん時間を過ごしてきたウィルはすでにこの危うさのようなものを感じ取っていたんだろうな……と思うので。月はもちろん例えではありますが、木原マイク、確かに宇宙くらいならたったひとりでポンと行ってしまいそうですよね。
「Winona」でのマイク像も新鮮でした! とっっっっても好きです。
萩谷マイク、吉高マイクはわりと恋愛モードでカメラ越しのウィルを見つめていて「僕だけの映画スターになってほしいよ」の部分が響いてきたのですが、木原マイクは「このままひとりは嫌だ」の部分が胸に迫ってきました。井澤ウィルに向ける眼差しが「君が好き、君も俺を好きになって」というよりも「弱い部分も恥ずかしい部分もある自分の心を装わずにさらけ出すから、どうか受け止めてほしい」と願っているように見えたんですよね。あの瞬間だけは頼もしさや力強さ、彼を覆う鎧の数々が消えて、マイクというより等身大のマイケルとしての姿や表情がありました。半分泣き出しそうで、弱々しさすら感じられて胸が締め付けられました。
カメラを構えるウィルに向かって一歩、また一歩とただゆっくり歩いて近づいていった後ろ姿が、解釈の仕方に作用している気がします。あのときのマイクはとても静かだった。木原マイクは基本的にノリのいい男子で「動」の人だと思っているのですが、だからこそ顔を出した「静」が際立って見えました。木原マイクの「Winona」本当に大好きです。スクリーンに映し出された表情、網膜に一生焼き付けておきたい。
そして、井澤ウィルが捉えた木原マイクからは彼の抱える孤独が垣間見えて、マイクとウィルは「孤独」という点でもわかり合えたのかもしれない、と大きな気づきを得られました(今になって公式PR動画を拝見したらちゃんと書いてありました。気づくの遅すぎる……笑)。仲間も彼女もいて順風満帆に見えるマイクだけど、自分の人生にどこか空虚さを覚えていたんだろうなぁ……。だからこそ、学校では馴染めていないけれど自分の世界があり精神的に満たされている(ように見えた)ウィルが眩しかったのかもしれません。
木原マイクは繕う部分がなく素直がゆえに、魂の片割れに対してすべての感情をそのまま注いでしまい溺れさせてしまったマイクという印象です。あまりにウィルと結びつきすぎてしまったのではないでしょうか。
井澤ウィルは、自分にとっての青春を素直に楽しんでいる様子がとっても素敵でした!
萩谷マイクのときは最初から恋愛モードだったこともあり、マイクのことをかなり意識していました。初めてドライブインシアターへ出かけたときたくさん話していたのは、緊張を紛らわせたりつまらないヤツと失望されないようにウィルなりに頑張っているように見えましたし、恋愛的に好きだからこそちょっとでも魅力的な人間と思ってほしくてお澄ましさんなところがあったように思うんです。特に最初のほうは。それはそれでいじらしく健気でとても好きでした。それだけマイクのことを魅力的だと思っていたし恋愛できたらいいなぁと考えていたってことですもんね。かわいい。
一方で、木原マイクとは友情として関係が始まったからか、わりと最初から等身大の姿をさらけ出しているように見えました。最初のドライブインであれこれお喋りし始めるのも、緊張を紛らわそうというよりは通常モードのウィルという感じがして……同じ場面なのに見え方が変わるの不思議ですよね。おもしろい!
木原マイクとの間には箸が落ちただけでも大爆笑できるような気楽さがありました。隠さず自分を解放していいんだ! という安心感。高校生って寝て起きたら忘れていそうなことにも大きく一喜一憂するよね、そんな時間が宝物になるんだよね、なんて思い、あ、この時間はウィルが高校卒業前に得られなかった青春の時間なんだ、と気づきました。映画を見てごっこ遊びしたり、あれこれと語り合ったり、好きな曲を好きなボリュームで聞いて一緒に大熱唱したり。
学校に馴染めなかったウィルにはおそらく友達らしい友達がいなかったと思うんです。自分がよいと思うもの、好きなもの、感じたこと、どれもこれも自分ひとりで噛み締めることしかできなかった。ウィルの青春には、心の中に広がる景色しかなかった。
だけど、マイクとの交流が始まって、骨にも肉にもならない、だけど今の自分にとっては最大の関心事が詰まった話をできるようになったわけです。この曲が好きだ。この映画ってこうじゃない? こんな迷信があるんだって。こうした言葉を交わし笑いあった時間は、ウィルの心の中だけのものじゃない。現実に起きたこととして記憶されます。そしてそれは、マイクという存在がいるからこそ紡ぎ出されたものです。空想することが好きな青年にとっての、夢のようだけど夢ではない現実。
一緒に青春を満喫できることが本当に本当にうれしくて楽しくて仕方なかったのではないでしょうか。マイクが、普段隠している部分を解放しても引かない、むしろ一緒に解放してくれることも大きかったはずです。遠慮をしなくていいんですから。伸びやかで生き生きとして心弾ませている様子がすごく魅力的に映りました。
マイクが「世界一の場所に連れていく」と言った後だったと思うのですが、その表情もすごくよかったんです。「マイクってほんとかっこつけだよね」と言わんばかりに肩を竦めそうな笑顔を浮かべていて。その気楽さがめちゃくちゃキュート! わたしは井澤木原ペアに感じるフランクさが本当に好きで仕方ないらしく、こういう欠片がいちいち刺さってしまいます。
井澤ウィルは素直でお茶目で、優しさがあるからこそマイクの孤独を受け入れようとしたけど、現実のすべてをどうしたらいいかわからなくなってしまった等身大の青年らしいウィルという印象です。
そういえば、「Evangeline」で「映画をつくろうよ」とマイクに切り出してからのふたりの雰囲気は特に恋愛関係とダチ感の同居を感じられて好きでした! 井澤ウィルも木原マイクもごっこ遊びを楽しんでいる。色気を感じさせないところが逆によかったです。井澤ウィルが今を素直に楽しみながら生きていてうれしくなりました。
先に歌い始めた井澤ウィルを見た木原マイクが「あーOKOK、そんな感じね? んじゃ俺も一緒に遊ぶか」とでも言い出しそうな生き生きとした表情で、恥じらいもなしにすぐ井澤ウィルの寸劇に乗ってきてくれる。そんなところも、ふたりだけにわかるテンポ感という感じでいいんですよね。まさに阿吽の呼吸。色っぽさはそれほど感じないけれど、このふたりはこれが「特別」になるからいいんだよなぁ……。
だけど地元のツレ同士のような空気感を醸し出しておきながら、そのあと貪るようなキスをするから、ただの友達じゃない、明確に性欲を伴う恋愛感情を抱いていることもわかる。このバランスがすっごく好みでした。万華鏡のように関係の見え方が変わるのがおもしろくて……! 恋愛ベースで読み解くのが正解なのかなと思いつつ、場面ごとにグルグルと色が塗り替わったり混ざったりして関係に違う色をつけてくれるように感じられて楽しく魅力的でした。
井澤ウィルと木原マイクはとにかくソウルメイト感があるの一言に尽きます。
井澤木原ペアを観劇したことで基本ペアの魅力にも気づいてしまった、なおかつ吉高マイクもう一度見たいな……の気持ちが高まってしまったものの、行ける日が大千秋楽しかありませんでした。しかし公式サイトや各種チケットサイトでは完売済み。
どうしようかな……諦めようかな……と悩んだのですが、何もしなかったら絶対に後悔する。そんな予感がありました。
御縁は自らつかみ取りに行くもの! ここまで来たらやり切ろう! と決めあちこち探し回った結果、公式サイトに記載のルール通り定価以下でお譲りいただけることになりました。本当にありがたかったです。公演を知らなかった時間を埋めるかのようにクリエ通いをしていたので、「GIRLFRIEND」の世界に浸れる時間が少しでも延びたことがうれしかった……!
7/2 13:30 ウィル:井澤巧麻さん マイク:木原瑠生さん(約5000字)
井澤木原ペア千秋楽の回。自分でもびっくりするくらい泣いてしまいました。入る直前までこのブログを書いていて30日に感じたことを深めていたことも影響しているかもしれませんが、前回よりもそれぞれの感情を強く感じ取れた気がします。
井澤木原ペアが魂の半身である解釈は変わりませんでした。
ただ、井澤ウィルをメインで見てみたら、お互いに濃淡あれど恋愛感情を最初から持っていたのかもしれないと感じるように。初めてマイクから電話がかかってきた井澤ウィルの表情や反応が、片想いの相手からまさかの連絡! うそ! どうしよう! という言葉が聞こえてきそうなほどクルクル変わっていて、これは恋をしている人間では……!? と思ったんですよね。初ドライブインシアター後の木原マイクの反応とあわせて考えたときに、友情と恋愛が地続きという解釈だったのが、恋愛を友情で覆っている解釈に動いたといいますか……いや、カモフラージュに使うほど友情、人間としてのシンパシーは弱くなくて、むしろ彼らは共鳴するものがあるからこそ好意を抱いていったタイプだと思うので表現が難しいのですが……。
趣味が合うだけなら友達のまま関係を築いていった気がするんです。でも、井澤木原ペアは自分の魂の半分を相手が持っていたしそれに気づいたから求めずにいられなかったんだろうなと思っていて。ふたりのマイクとウィルが、というよりこの作品のマイクとウィル自体がそうなのかもしれませんが……。
印象的だったのが、手紙が見つかった後にウィルが胸の内を吐露しているときのそれぞれの表情です。
ウィルを傷つけたのはマイクでもあるのに、向き合ってウィルの言葉を聞くマイクの表情がまるで自分の心臓を鋭利な刃物でえぐられているかのように痛々しくて苦しくて、瞬きしたら泣き出してしまうのではないかと思うほどで……。
ウィルの痛みはマイクにはわからないはずなのに、向き合うとやっぱりどうしたって伝わってしまう。痛み自体はそのまま感じ取れてしまう。原因を本当の意味で理解することはできないのに。同じだけど違う、だから苦しい。
井澤ウィルも井澤ウィルでまるで幼い子どものように顔をくしゃくしゃにして痛切な胸の内を明かすから、もう本当にどうしようもなくて……。
マイクのことが嫌いになったのではない。むしろ好きでいたいのに、このままだと相手も自分も嫌いになってしまいそうだから別れを切り出したのかなと思いました。
30日に観劇したときは澱の蓄積が「大学に行くのは遅すぎるかな」をめぐる会話で爆発したイメージでしたが、今回はそのときの会話が一発で致命傷となったように見えました。
生まれてしまった大きな傷口から流れる血が止まらなくて、心はほとんど瀕死状態だったと思うんです。それなのに、別れを告げるため愛をつづった手紙はマイクの仲間たちに見つかってしまうし、マイクは自分を置いてリンカーンへ旅立とうとする。同性愛者であることが不本意にも明かされてしまった状態のまま田舎町で生きていくのは自分だけ――。傷口を縫い合わせるどころか塩を塗り込んでくる現実と愛しい人に耐え切れなくなってしまった。だから「もう無理……」という言葉が口をついて出た。そんなふうに捉えられました。
嫌いな人に「もう無理」と言うのは難しいことじゃないと思うんです。嫌いだから相手への共感を捨てることだって容易い、ある程度冷酷にもなれる。だけど、マイクは好きな人、魂で結びついている人。そんな相手に「もう無理」と伝えて突き放すのは、心臓を根っこからえぐり取られるような感覚がしたのではないでしょうか。息が止まる気さえしたかもしれません。
ウィル自身の中に凄絶なまでの痛みが生まれているのに、それだけではなく相手の痛みも伝わってきてしまうから、そりゃ顔もくしゃくしゃになるよね……傷つけられたのに傷つけたような顔をしてしまうよね……。
マイクはマイクで、やっと見つけた魂の半身であるウィルが離れていってしまう、傷ついている、ウィルを傷つけてしまった焦りや後悔で頭がぐしゃぐしゃになって、背中に戻ってきたはずの半身が引き剥がされていくことへの苦悶で顔が歪むよね……。
ふたりの心境を考えると涙が止まりませんでした。
ここは、やっぱり木原マイクと井澤ウィルは魂を分け合ったペアなんだと感じられた場面でした。鏡ではないけれど鏡のようにも思えました。「大学へ行くのは遅すぎるかな」でマイクとの決定的な違いを感じてしまったがゆえの今なのに、それでもどうしたって「君は僕、僕は君」……。そっくりというわけではないし、ウィルとマイクはむしろ似てないところが多いのに不思議な感覚です。
「Your Sweet Voice」で見つめ合いながら歌うふたりの表情が柔らかく愛に満ちていて、すごく幸せな気持ちになりました。
井澤ウィルのことを受け止めてくれる人と解釈しているからかもしれませんが、ベッドに向かい合って横たわったとき木原マイクの腰あたりに腕を置くのが、包み込んで心の柔く温かい部分を守ってあげると言っているように見えて泣けてきてしまいました。次の展開がわかっているからこそより一層切なくて……。マイクがリンカーンへ旅立つ直前なので「行かないで」と言っているようにも見えます。気持ちが無意識のうちに行動として表れていたのかなぁ。
この場面以外もそうなのですが、井澤木原ペアが双方に向ける動作は切実さを覚えるものが多かったように思います。友情なのか愛情なのかもはやわからなくて、ただウィルがウィルだから、マイクがマイクだからそうせずにはいられない、とでも言いましょうか……。自分の解釈に引っ張られすぎている気もしますが、言葉では言い表せないもっと大きな何かに魂が引き寄せられているように思えてくるんですよね。
シンプルなスキンシップに意味を見出そうとしすぎかもしれませんが、ひとつひとつの動作や言葉、表情、間合いに感情を見つけたくなってしまう作品なんです「GIRLFRIEND」って……!
手紙のシーンのふたりはすべて宝物ですね……苦しいですけど……。「じゃあここに残って」とついに本音をこぼした井澤ウィルの痛切な声や表情、「それはあり得ない」と断言しているのに痛ましさがにじんでしまう木原マイクの声や表情、全部切なくて苦しくて大切です。井澤木原は自分の痛みだけではなく相手の痛みもひしひしと感じ取ってしまうから、つらさが二乗されるのがもうほんっとうに苦しいですよね……苦しいしか言えない自分が愚か者すぎる……!
井澤ウィルが「もう無理」というとき笑顔を繕っているように見えたのですが見間違いでしょうか……泣きながら双眼鏡を覗いていたので自信がないのですが、マイクから離れようとするとき最後に見せるのが笑顔(というより泣き笑い)だとしたら、あまりに健気というか不器用な優しさすぎるというか……。
もし怒ったような表情ならマイクの振る舞いを責める言葉に聞こえると思うんです。マイクの言葉や振る舞いのせいで自分はこんなにも苦しい思いをしている、と。
だけど、笑顔や泣き笑いだと「もう無理」になってしまったのはウィル自身のせいだと告げているように聞こえるんですよね。ごめん、ぼくではもう無理みたい、と自分の力不足を伝えているように受け取れるというか……。そしてそれは突き放してしまうマイクに向けるウィルなりの最後の優しさなんじゃないかと思ったんです。こうして離れる選択をしたのは自分自身のせいだからマイクは自分を責めないで、と伝えようとしたのかなと……。
なので、もし「もう無理」と言ったときに笑顔を繕っていたとしたら、なおのこと切ないなぁと感じました。
「Winona」、「You Don’t Love Me」「Nothing Lasts」「I Wanted to Tell You」あたりはボロボロ泣いていて視界不良のためもろもろ自信がありません……。
展開を知っているのに井澤ウィルと木原マイクが過ごす日々に夢中でした。感情が新鮮に動いて恥ずかしくなるほど泣いてしまった……。
最後、手をつないだふたりの表情に笑顔がなかったように見えて、それがとても印象的でした。
同性愛者に対する差別・偏見に一緒に立ち向かっていくんだ、自分たちらしく生きられる世界をつくるんだ、自分たちらしく生きていくんだ、という強い意思をふたりの瞳から感じたんですよね。「Girlfriend」で歌っていた「もう君を手放さない」という歌詞を思い出させる場面でした。
差別や偏見に立ち向かうということは言葉以上に本当に難しく、勇気の要ることです。受け止めてくれる人ばかりではないし、説明するときの相手の言葉や反応、空気感に傷つくこともある。現実は優しさもあるけれど同じくらい厳しい。そもそも異性愛者以外の人間が「なぜそうなのか」と説明を求められがちなこと自体、個人的には納得いってないですけど……。異性愛者以外の人間がマイノリティーだからと言われてしまえばそれまでなんですが、異性に愛情と性欲を向ける人たちは自分がなぜそうであるか説明する必要も問われることもないのになぁと。
話が少しそれたので戻しますね。
実際、90年代のアメリカでは同性愛者であることを理由に暴行を受け命を落とした人たちがいると聞きました。厳しい現実なんて一言で簡単にまとめてしまうのが躊躇われるほど、むごい現実がウィルとマイクの生きる世界にはあったわけです。作中で特にマイクが周囲からの目を気にしていましたが、それにはこうした背景もあります。同性を愛することは命を落とす危険性を孕んでいた。
こうした現状をも理解した上ですべてを乗り越えていくんだ、と決意したのが井澤ウィルと木原マイクに見えました。
音楽から始まったふたりが音楽で再び人生を重ね合わせていく結末はすごくロマンティックですし、笑顔で終わるのも大好きです。全然ありなんです。だけど、作品と現実が地続きであることを思い出させる表情で最後を締めくくってくれたことがとてもうれしく、心強く感じました。
30日までのこの部分の記憶が欠落しているので、演出なのか井澤さん、木原さんの解釈なのかはわかりませんが、感謝の気持ちでいっぱいです。本当に「GIRLFRIEND」に出合えてよかった。
自分の好みや思考とは全く別次元、それこそ神様がもうどうにもできないような部分で響き合っていた井澤木原ペアのウィルとマイク、とっても好きです。
物理的な距離がすごく近いわけではない。同い年の男同士ぽいフランクさもたっぷり。もしかしたら付き合っていると気づけないかもしれないほどウエットさのないふたりですが、ふたりには確かにわかる魂の結びつきがあるところに、どうしようもないほど心を揺さぶられます。ウィルにとってマイクが、マイクにとってウィルが運命の相手なんだと思わせてくれるペアでした。
声の重なりもすごく素敵でした! 30日に聞いた「Reaching out」でのファルセットが本当にきれいに重なりあっていて、まるでひとつの音のように響いていたことに感動。2日もさまざまな曲で聞き心地のよさを感じていました。
「Looking At the Sun」とかもう本当に生き生きとして楽しそうですっごくいいですよね! 歌というよりパフォーマンスの話になってしまいますが「もう見えない」の歌詞で向き合うとき、木原マイクが井澤ウィルの目を両手で隠し、パッと視界を開けさせてからふたりで笑い合うところ、大好きです。歌い終わった後、木原マイクが手をつなごうとしているのに気づいてちょっと構える井澤ウィル、かわいかったなぁ。井澤ウィルは、ぽわんとしていてかわいい!
ペアとしての化学反応はもちろん、歌声の調和も鑑みての基本ペアなんだなぁと気づかされた次第です。
もちろんシャッフルのペアもそれぞれ魅力的で大好きですが、基本ペアはまた違うくくりといいますか、好き嫌いという次元を超越したところに存在していると感じています。
7/3 13:30 ウィル:島 太星さん マイク:吉高志音さん(約9000字)
大千秋楽にして初めましての島吉高ペア。井澤木原ペアを観劇して基本ペアには基本ペアにしか生み出せない絶対的な魅力があるとわかっていたので、この日を心待ちにしていました。歌声の重なり方は? 元気いっぱいな島ウィルとロマンティックな吉高マイクが出会ったらどうなるんだろう? ドキドキワクワクしつつ、そしてこの公演で「GIRLFRIEND」が大千秋楽を迎えてしまう寂しさを感じつつ着席。なるべくおふたりのことをバランスよく見るよう心がけました。
島吉高ペアは「樹木に花が咲く春の日の恋愛」。
1990年代は「男らしさ」という言葉がまだまだ幅を利かせていた時代だと思います。男なら力強くあれ、ナヨナヨするな……。このふたりは、こうした「男らしさ」から離れた場所にいる/いたいように感じました。
島ウィルは座るとき大抵足のつま先が内側にくっついています。内股気味。「男らしくあること」を全く意識していないんですね。おそらく「男らしさ」とか男子同士のノリというものがしっくりきていないんだと思います。初めてドライブインへ出かけたときマイクから「なんでそんな話(ガールフレンドのこと)ばかりするんだよ」と問われ「男の会話ってこんなもんでしょ?」と返していることから察するに想像できてはいるんだろうなぁと思うんです。ただ、自分にはしっくりこない。異性愛前提かつホモフォビアな会話だとしたらそれは当然馴染まないですよね。自分とはまるで違う世界の話なんですから(「男の会話って―」というセリフは、マイクが「男らしさ」を重視する世界で生きていると思っているから出てきたのかなと解釈しています)。
島ウィルは基本的に自然体の人。幅の広い川のようにゆったりと存在している。内股気味の座り方も意識的にそうしているわけではなく、そう座ることが自分にとって自然というだけなんです(最初はマイクが恋愛的な意味で自分に興味を持っているなんて夢にも思っていないわけですから、人気者の男の子といるんだから、とむしろ不自然なまでに力強く振る舞おうとしたって違和感はありません。現に「男の会話って―」という言葉もあった)。
だけど時代が時代なら、といいますか作中はそういった「時代」だったので、自然体であるがゆえの振る舞いを「こいつ女みてーな座り方してるぜ!」などとからかわれてきただろうことは想像に難くない。性的指向を絡めたもっと直接的な言葉だった可能性もあります。おでこにマジックペンで書かれた言葉ってどっちなんだろう……。
小学生のころタバコ臭対策でいとこのTシャツを着ていたら、ある日うっかり「Daddy’s little princess」と書かれたシャツで登校してしまい、からかわれ恥ずかしい思いをしたと明かす場面もありました。事情を説明する隙も与えられず、クラスメイトたちはそもそもウィルの言葉に興味がなく耳も貸さない。一方的におもちゃにされてしまった様子がありありと浮かびます。Tシャツの件に限らず、ウィルにはきっとそんな日が幾度となくあった。
それでも、世間が要請してくる「らしさ」に迎合することなく、自分がありたいようにあったのが島ウィルだと思います。その結果、学校で浮いてしまったわけですが……。
他方の吉高マイク。男子っぽいノリもわかるけど付き合っているだけに見える紳士的なタイプです。冗談だからといじり、いじられるような周囲のノリが自分にフィットしているというよりは、処世術のひとつとして受け入れうまく使いこなしているような感じ。高橋吉高ペアのときにも書きましたが、自分がどう見られているか、どういう振る舞いを求められているかということに特に自覚的なんですよね。
本当は言葉で遊びたくなんかないし意図的に傷つけたりもしたくない。嘘もつきたくない。コミュニケーションとして他者を下げたりバカにしたりするなんてことに、面白さなんて全く見出してないんです。だけど、それを止めるのは学校内において「マナー違反」だと知っている。
彼女がいたことはないと明かしたウィルに「だからあんなふうに言われていたのか」と返したことから察するに、現場に居合わせたこともしくは近くにいたことはあるんですよね。だけどきっと止めなかったし、ウィルに言葉もかけなかった。庇えば仲間たちから理由を問われるけれど「気になる子だから」なんて言えないんです。性的指向を明かせばどうなるかは世間が痛いほどに教えていたわけですから。じゃあ嘘をつけばいいんじゃないかとも思いますが、ウィル相手にそれはしたくなかった。だから関わらなかったのかな、と吉高マイクのことを考えていて思い至りました。
本当にしたいこと、言いたいことはいくらでもある。周囲から冷やかされそうな優しさを同性にだって分け与えたい。空想の世界をゆっくり歩いて楽しみたい。「男ならこうあるべきだ」という世間の眼差しだって本当は気にせずにいたい。現状を窮屈に感じている。
だけど、それなりに生きていくために、自分が本当にしたいことは心の奥にしまってあるのが吉高マイクなんだと思います。
そんなふうに捉えたので、島ウィルと吉高マイクは「男らしさ」という言葉と離れている/離れたいように感じました。
そんなふたりの間には令和的な空気感が漂っていたように思います。
現在テニミュに出演している若手俳優のみなさんのインスタライブなどを見ていると、お互いを褒め合い相手への好意を気軽に伝える方が少なくないんですね。「かっこいい」「大好き」「優しい」など。一昔前なら「男らしくない」と一蹴されていそうなやり取りだと思いますが、それらが自然に成立しているのがすごく素敵。
「男らしさ」への固執がない彼らの言葉は、身体的な性別を飛び越えひとりの人間・役者としての好意や敬意を素直に伝えているように感じられます。自由で自然。「男らしさ」(とか「女らしさ」など)ではなく「自分らしさ」を大切にしているなぁと思います。若手俳優さんたちの言動を見ていると、今は令和なのだなぁという気持ちになることが多いです。まだ平成だった10年前、2014年には感じられなかった空気。
島吉高ペアは、仮にふたりの間に恋愛感情がなかったとしても気軽に好意や敬意を伝えあえる、令和的な空気を感じました。男だからこうすべき・こうしてはならない、ではなく、自分がこうしたいからこうする、ということを優先する/したい雰囲気。穏やかで柔らかで、見ていて心がほっとしました。春の陽だまりに身を置いているような安心感。世界がずっとこんなふうに優しければいいのにと願ってしまうほどでした。
もっとも20年以上前の話で今とは比べ物にならないほど同性愛への差別・偏見が激しい時代だったので、特に人気者で注目を浴びてしまうマイクは「男らしさ」と「自分らしさ」の狭間で悩んでいたんでしょうし、ウィルへの好意も夜の郊外でひっそりと伝えるのが精一杯だったわけですが……。それでも、ウィルと過ごしているときは「自分らしさ」を優先していました。だから空気がふんわりとしていた。
孤独を分け合えたことはもちろん大きかったと思いますが、穏やかで柔らかな優しさを見せ合い受け止め合える点でこのふたりは響き合ったような気がします。ちいさな命を慈しめるような愛情。道端に咲く花を見つけてささやかな幸せを覚えられるような感性。そうしたものを島吉高ペアは持っているように感じました。
島さんの歌声が広い大地に根を張る樹木のようだとしたら、吉高さんの歌声は涼やかに凛と咲く花のようだと感じていることもあり「樹木に花が咲く春の日の恋愛」という印象を受けました。なぜかこのふたりからは春の温度を感じるんです。うららかな日差し。
島萩谷ペアのときに島ウィルを「太陽」と称しましたが、あのときはどんな光なのか自分の中で答えをつかみあぐねていましたが、春の日差しだったんだ、と大千秋楽を見て理解できました。
ひとつの樹木からはひとつの花しか咲きません。ソメイヨシノの樹木に梅の花は咲かない。咲くべき花が咲いたし咲くべき場所で咲いた、出会うべくして出会ったふたりなのではないでしょうか。島ウィルは吉高マイクに出会って日々が色づいたし、吉高マイクは島ウィルに出会って心の安寧を得られたんじゃないかと思っています。
想いが通じ合ってからの空気感は、あまい愛情にあふれていて……もうほんっっとうに、愛しか感じなくてすごかったです。「甘い」というよりひらがなの「あまい」。角が取れてすべてがなめらかな曲線で形作られている雰囲気。とろけるようなメープルシロップの中でふたりの心がたゆたっているようでした。
「Evangeline」終盤、台座の後ろで上手と下手に分かれてにじり寄り、しゃがんだまま真ん中で出会う場面、あまりの湿度にびっくり。吉高マイクが首輪を投げると、島ウィルは簡単にそれに捕まって引き寄せられていったんです。紳士な吉高マイクがエア首輪を投げてみせたことも、無邪気な島ウィルが恥じらいもなくそれに応じたこともわたしにとっては衝撃でした。清らかな色の花だと思っていたら艶やかな花に生まれ変わっていたような気分です。
さらに、ウィルは両膝、両手をついたままだったかな? で、マイクに近づいていってて……! 真ん中で出会ったとき、下からマイクを見上げてた眼差しに色がにじんでいたのがとても印象的だったので記憶が間違ってたらごめんなさい。恋愛の「れ」の字を知らないどころか、ひとたび触れれば欲望があふれだしてしまいそうなウィルの瞳にとてもドキドキしました。マイクへ触れる手つきも色っぽかったです。
真ん中で再び対面したふたりは熱烈なキスを交わし、それからマイクが「行こう」と自分の部屋へ誘うのですが、吉高マイクはここで手を引くんですよね! 高橋ウィルとのときもそうでした。さり気ない動作に吉高マイクの紳士らしさがにじみます。
そしてそこからの「Your Sweet Voice」!
ベッドの上で向き合ったふたりが片手を繋ぎ合わせていて、吉高マイクが「愛の炎灯る」と歌いながら島ウィルの頬に触れるために手を離すのですが、すぐに空いているほうの手をお互いに触れ合わせていたんです。島ウィルが吉高マイクの頬に触れたときも同じで……(このへんの流れも曖昧でごめんなさい)。
他のペアのときどうだったか思い出せないのですが、自分が人生で愛すべきたったひとりの人から片時も離れたくないという気持ちがひしひしと伝わってきて、そんなふたりが本当に愛おしかったです。ふたりの間にはどんな人であろうと、神様ですら割り込むことはできないと教えられた気分。「Evangeline」からの流れは、匂い立つ濃密な時間でした。
島ウィルは、中盤以降の晩夏のような感情の動きがすごく素敵でした!
おおらかさ、伸びやかな雰囲気は萩谷マイクとのときと同じ。自分の世界に生きているあどけなさの残るウィルで、中盤くらいまでは春の陽気そのものでした。「Looking At the Sun」で立ったまま歌うマイクを見上げる表情とか、愛おしさがいっぱいに詰まった優しい眼差しだったなぁ。
ですが「Evangeline」あたりからだったかな、少しずつウエットさをまとい始めて、晩夏のあの、命が燃え尽きた後のような焦げ付いたにおいが漂い始めました。息を吸い込むと切なさがよぎるような、あのにおいです。
印象的だったのは手紙のシーン。萩谷マイクとのときは抱きしめ返していたのですが、吉高マイクのことは抱きしめ返さなかったんですよね。島吉高ペアは1回のみの観劇だったのでわからないのですが、いつもこうだったんでしょうか? 同じシーンなのに感情の動きが全然違って見えてすごくおもしろかったです。
今回はマイクへの失望が強く感じられました。多少強引なキスをされても抱きしめられても騙されない、吉高マイクが捨てきれないものを見抜いている。いくら恋人らしい振る舞いをしたって「愛してる」と囁いてくれたって、ウィルにとっては「マイクが地元を離れてリンカーンへ行く」ということだけがすべてなんですよね。ここでひとり背負って生きていくことになるんですから。街を離れるマイクは何とだって言えます。離れてしまうから無関係でいようとすることだってできる。そのことに対する失望、そして怒りを抱いていたように見えました。
それに、自分の感情が昂っていて記憶が曖昧なのですが、宥めようとするマイクのことを突き飛ばして距離を取っていましたよね……? 少し離れるどころか上手と下手くらいの距離が生まれているパターンは初めて見たのですごく新鮮でした。ウィルがあんなに感情を爆発させるなんて! あまりに惹かれ合っているから、触れられる距離にいたらさよならを告げられないと思ったのかな……物理的に生まれた距離が苦しかったです。マイクにしたらウィルからの圧倒的な拒絶に感じるじゃないですか。だけどウィルがマイクを突き放したのはマイクを嫌いになったからではなくて、共に過ごすことで感じてしまう苦しさから逃れるためだったんじゃないかなと思うんです。そんなすれ違いが切なかった……。マイクの部屋で目覚めた朝の流れからもうずっと涙が止まらなかったです。
それにしても、この場面での吉高マイクとの感情のぶつけ合いは本当にすさまじかった。静かに、だけど確かに怒ったり悲しんだり嘆いたりしているんです、ふたりとも。そしてそれらはすべてが言葉や声量に表れるわけではないけれど、表情や張りつめた空気でこちら側に痛いほど伝わってきたんですよね。ミュージカルを見ているというより、ウィルがマイクに別れを告げる場面をのぞき見しているような感覚に陥りました。作品なんですが、作品ではなくウィルの人生とマイクの人生がここにあるんだ。そう思ってしまうほど。
今はこうしてあれやこれやと書いていますが、観劇中は感想なんて思い浮かべる隙もないほど青い炎の激しい揺らめきに見入っていました。おふたりとも素晴らしい演技でした!
吉高マイクと恋に落ちる島ウィルは、まさに恋に身を焦がす青年でした。島ウィルが歌う「You Don’t Love Me」の「君に恋焦がれる僕を愛せない」という歌詞、あまりにも骨身に染みる。萩谷マイクのときの溌溂としたイメージが強かった分、吉高マイクとの間に漂う湿っぽい雰囲気が記憶の中に鮮烈に残りました。相手が変わると紡ぎ出す空気が変わるというのを、島ウィルを見て一番感じたかもしれません。こんなにも違うウィルを見せていただけて幸せです!
島ウィルは純朴がゆえにマイクへ溺れていくのが早く深く、落ちていった場所で自分の感情をどう扱えばいいのかわからなくなっていったウィルという印象です。燃え上がるような初恋。
吉高マイクは、ウィルへの愛に終始感情を揺さぶられている様子がすごく素敵でした!
初めてのドライブインでウィルの話を聞くとき、体を何度もウィルのほうに向けているんですよね。ウィルの話をちゃんと聞きたい、ウィルにしっかり向き合いたいという気持ちの表れに見えて、誠実かつ切実な態度に吉高マイクの想いの深さを垣間見ました。
「好きなヤツはいたことがある」と明かしたとき「えっ、誰?」とすかさず問うたときの表情も、好きな人の好きな人、好きなタイプが知りたいという気持ちが全面に出ていてかわいかったです……! プロムキングで人気者のマイクだけれど好きな人の前では余裕なんてかましていられないよね、とニマニマ。井澤萩谷ペアも甘酸っぱい恋愛でしたが、島吉高ペアの初ドライブインのことを思い返すと、また別ベクトルで甘酸っぱい恋愛をしていた気がします。甘味が強めの甘酸っぱさ。かわいい。
星空の下で向き合いウィルの好きなところを告げるとき、人差し指で髪やこめかみ、頬のあたりに触れてから両手で頬を挟みぐっと近づいたところにも想いの強さを感じました(これは高橋ウィルのとき同じように触れていたので、吉高マイクの特性なんだろうな……甘い……)。
「Evangeline」で映画を作り始めたウィルに「エヴァンジェリンをやってよ」と目線でお願いされたときは「俺が?」と驚きつつ「しょうがないなぁ」と立ち上がる表情から愛が駄々もれ。「Your Sweet Voice」のときは先述の通りです。ベッドから起き上がるときの膝ポンはもちろんありました(吉高マイクの甘い特性その2)。
何と言っても出色だったのは、ウィルが自分のシャツを投げ捨ててマイクの部屋を後にした場面以降のすべて!
ウィルが部屋を出る前から泣き出してしまい、最後のほうは声が漏れ始めていて……完全に部屋を去った後、膝をついてだったかな、ウィルが投げ捨てたシャツを拾い上げたらそのままシャツに顔を埋め声を上げながら泣いていたんです。声を上げて泣くマイクに初めて出会ったので驚きもありましたし、「どう見られるか」を意識してきたはずの吉高マイクがいくら自室とはいえ子どものように泣く姿からは、自分を繕っていられないほどの深い悲しみや後悔、喪失感が伝わってきました。そしてそれが同時にウィルへの愛情の深さにも感じられて息が詰まりそうでした。観劇しているわたしまで声を上げて泣きたくなるほど苦しかったです。本当につらかった、ほんとうに。
大学へ進学してからも全然割り切れていませんでした。テキストやノートを開くけど苦悶の表情で頭を抱えてばかりで、ウィルに別れを告げられた夏の日から一歩も出られていない。マイクってこんなにわかりやすく引きずっていたっけ……と思うほど、吉高マイクは島ウィルを忘れられないし、忘れたふりもできないし、なかったことにして生きていくこともできていませんでした。未練しかない。スマートになんて振る舞えない。
これだけ引きずっていたからなんでしょう、リンカーンで再会したときに「……ウィル?」と名前を呼び確認するときの声音が、もううれしさのあまり泣き出しそうで……! うわーーーーーん、ほんとうにほんとうによかったよ―――――!!!!! と、「I Wanted to Tell You」でも大泣きしてしまいました。
同曲中に「君の世界に浸るよ 僕はもう怖くない」といった内容の歌詞があるのですが、それがあまりに響きすぎる。吉高マイクが「自分らしさ」を選ぼうと決意できたことがうれしいですし、何より向かい合って歌うふたりを見たときの多幸感がすごかったです。本当にふたりが再会して、もう一度お互いの手を取ることができてよかった……! ハッピーニューイヤー!!!!!! と客席で叫び出しそうでした。
吉高マイクは、感情の理由がすべてウィルになっているけれど、いたからこそ愛と意志の狭間で立ち尽くすことになった印象です。
幸せを連れてくるのも失意の底に突き落とすのもウィル。心を丸ごと差し出しているというより、持っていかれたんだろうなと思います。マイクの心はウィルの手のひらの上にあったんです、カセットテープを渡す前から。
そういえば、「月に行かないで」と切望されたとき、吉高マイクはウィルのほうを一切見ずギターに視線を落としていたことにハッとしたのを思い出しました。やっぱりウィルに対しては嘘をつけないマイクなんだなぁと……。「行かないよ」とも「ここに残るよ」とも言えないし、木原マイクのように軽く笑ってごまかすこともできない。リンカーンへ行く未来しかあり得ない。
だけど言えばウィルが傷つくことはわかっているから、目を見ず口を噤むことしかできない。ここで何か伝えていれば違った未来があったんじゃないかと思うのでこの反応が正しいかどうかはわかりませんが、これも未熟さゆえの対応かな……という気がします。というか若かろうが年老いていようが、正解ばかりを選べるわけじゃないですもんね……。
ふたりでいるだけで温かく優しく柔和な雰囲気が流れ出す、出会うべくして出会った穏やかな命の重なりのような島吉高ペアのウィルとマイク、とっても好きです。恋模様は湿度を帯びていきましたが、本質は春の日差しだと解釈しています。
最後に手をつないだ後、ふたりで少し微笑んでいるのも素敵でした。
島吉高ペアなら最後の表情が微笑みになるのもわかります。重苦しい現実の中に安息地を見つける、もしくはふたりで作って愛を育み幸せを感じながら生きそうですもんね。好きな音楽を流して歌ってみたり、創作物のたらればを考えて真剣に討論してみたり、こぼれ落ちそうな星空を眺めながら星座の神話を語り合ったりする。周りがどう思うかなんて関係なく、そうしたふたりだけの牧歌的な空気を大事に生きていきそうです。そして気づいたら周囲がふたりの愛をそのまま受け止め受け入れているような、そんな未来すら思い描けます。
そして何よりハーモニーがすごく美しかったです! 低音と高音の重なり方が耳に心地よく馴染んで、ずっと聞いていたかった……。井澤木原ペアのときも思いましたが、基本ペアって声がひとつになるんですね……すごい。
特にマイクのギター弾き語りから始まる「We’re the Same」の美しさは格別でした! 繊細さが鼓膜を撫でるような吉高マイクのソロはもちろん、途中で寄り添うように入ってくる島ウィルの穏やかな「Baby」もすごく素敵。すべてが自然。歌声とギターの音だけで紡ぎ出されていたあの時間のすべてに心がふるふると震えました。どんな音もすべて邪魔になってしまうから物音を立てたくなくて身動きひとつ取れなかったです。声の調和がすばらしく、まさにあの星空の下で重なったウィルとマイクの心そのままでした。「僕らは同じだ」という歌詞を歌声でも表現してくださったおふたりに感謝。本当に本当に素敵。大好きなペアです。
おしまいに
今回のブログにお話や楽曲への感想も記そうと考えていましたが、各ペアの振り返りを怒涛の勢いで書いていたら疲れてきたので笑、別の機会に譲ります。とても好きな作品になったので、謎の義務感だったりなあなあなテンションで振り返ったり書いたりしたくない……! 近いうちにまとめたいところです。(2024年7月20日追記:作品全体や楽曲に関する感想をまとめました! 記事を貼り付けておきますのでよろしければ)
書き始めたときはここまで長文をしたためることになると想像していなかったので、自分でもびっくりしています。ここまでそれぞれのペアに対して思うことが湧き上がってきたのは、みなさんそれぞれがウィルとマイクの人生に向き合い掘り下げ築き上げた上で演じてくださったからなんじゃないかと思うんです。
作中で描かれていない人生がキャストさんの中にあるからこそ、それぞれの方が演じるウィルとマイクに心動かされたし、これまでとこれからが見えた。描かれていない部分が見えるからこそ、描かれていることの深みが増した。そんなふうに思います。
こんなことを言うのは大変おこがましいですが、それぞれの努力がこの作品の持つ魅力をさらに高めたのではないでしょうか。みなさんが丁寧に「GIRLFRIEND」の世界をつくり上げてきたこと、そしてそれを支えてきたであろう誠実な努力に感謝です。
また、あらためて振り返ってみて、観劇した5組のペアは本当にそれぞれ違った魅力を持っていたなぁと感じました。基本ペアにどうしても心惹かれてしまう部分はありますが、シャッフルウィークで拝見したペアも見どころがたくさんありましたし、何より発見の連続で観劇するのが本当に楽しかったです! どのペアももう一度見たいし、今回見られなかったペアも絶対に最高だったと思うので見てみたかったと心底思います。
そして、お名前だけ存じ上げていた方や全く存じ上げていなかった方の魅力に触れられたこともすごくうれしかったです! 基本的に「これが好き」と思ったらそれを突き詰めていくタイプなので、新しい出会いの連続だった今回の体験がとても鮮やかなものに感じられました。思いがけない出会いがあるから人生って楽しいんだなぁと再認識。世界はほんとうに広いです。
6人ともそれぞれいろんな色の宝石を持っていて、違う作品だとどんな演技をされるのかなと興味も出てきて……危険……ほどほどでいたい……。だけど、こうして自分の世界が広がっていくことに今すごく心が弾んでいます。
願わくば同じキャストで再演してほしいけれど、全く違うキャストで新しいウィルとマイクに出会えるのも素敵かもしれないですね。欲張り人間なので円盤化も音源化も再演も、全部お願いしたいです……! このブログをあげたらアンケートに思いの丈をつづってきます。BGMはもちろん公演のセトリで組んだプレリスです。
最後に公式映像のリンクを貼っておきます。これを読んでくださった方は観劇された方ばかりだと思いますが、仮に未観劇の方がいらっしゃればぜひ……空気感だけでも……! ゲネプロ映像や稽古映像などもオススメだらけなのですが長くなるので割愛します。
すてきな作品に出合い、出来る限り追いかけ世界に浸れた8日間、本当に幸せでした。であえてよかった! ハッピーニューイヤー!
では!
テニプリほぼミリしらだったジャニオタが「リョーマ!」を浴びて狂った結果「んんーっ、絶頂!」で泣く
【目次】
- わたしの過ごしてきた2週間
- 「リョーマ!」とは
- 初鑑賞に至った経緯
- 1回目 Decide(旧テニ、新テニ未読)
- 2回目 Glory(旧テニ済、新テニ序盤まで)
- 3回目以降
- さいごに
わたしの過ごしてきた2週間
「リョーマ!」とは
初鑑賞に至った経緯
1回目 Decide
何!?!?!?!?!?!?!???!!!?!!?!
誰!!?!?!?!?!?!??!!???!?!??
2回目:Glory
3回目以降
さいごに
猟奇的な愛と執着心の終着点――SixTONES「Hysteria」の歌詞考察
9月に行われた舞台「少年たち」で披露されたSixTONESのオリジナル曲「Hysteria」。10月5日放送のザ少年倶楽部で初披露され、歌詞の全貌が明らかになりました。
歌詞をパッと見たとき、倫理観が欠落した、閉鎖的で歪んだ世界が浮かび上がり、それと同時に「Hysteria」は歌の主人公のことを指すのではないかと思いつきました。ややアブノーマルかと思ったので日を置いてあらためて歌詞を眺めてみたものの、ひとつの解釈としてはあってもいいんじゃないかという思いが深まっていく一方。
そこで、英語詩の部分は文法をあまり考えない超訳をしつつ、和訳という名の歌詞の再構築をし、自分なりの解釈を書いていきます。あくまで個人的な、ご都合主義かつ想像力が暴走した解釈です。こういう読み取り方もあるんだなくらいに受け取っていただければと思います。文字数はページ番号がわりに書きました。分量把握の参考にしていただければと思います。
※タイトルにもある通り、歌詞から「独占欲」「執着心」「猟奇的な愛」を柱に解釈していくので、気分を害する表現が出てくる可能性があります。以下、特に注意書きはしません。閲覧は自己責任でお願いします。
◇目次
◆歌詞
◆和訳を含めた歌詞の再構築
◆考察ー大まかな流れ
1.主人公と君の関係性(約1000文字)
2.君に対して「恋人のように」、「紳士ぶって」振る舞う主人公(約1300文字)
3.猟奇的な愛が牙をのぞかせる瞬間(約1300文字)
4.倒錯的な世界に溺れる主人公(約2200文字)
5.猟奇的な愛と執着心の終着点(約1300文字)
◆考察ー部分的な要素
1.冒頭の音について(約1300文字)
2.「Green light」「Yellow light」の解釈(約300文字)
3.単語/フレーズの繰り返し=主人公の執着心(約300文字)
4.心中ソング/独占欲の果てに殺すソング/不倫or浮気ソング(約700文字)
5.カニバリズムの要素(約700文字)
◆歌詞
◆和訳含めた歌詞の再構築
君のことを探し求めてきた 君のことを知りたい
君の愛が必要なんだ だから君の恋人になりたい
ねぇ、君のことを連れ去りたいよ だって一人きりじゃ憂鬱で、気分が塞いじゃうから
ほら、いつでも君の名前を呼んでるよ
君を捕まえた まぁ、ゆっくりいこうか 夜はこれからなんだからさ
いくら君を忘れようとしても 君を一人きりになんてできやしなかった
君と目が合うとこんなにも胸がざわめくんだ だから君以外欲しくない 君だけが欲しい
肌に触れた君の唇は赤らんでいるね まだ君のこと全然味わえてないよ
いつも君のことを手に入れられない ねぇ、「いいよ」って言って
離さないで だって僕を虜にするのは君だけなんだから
僕のものにならない? 君は僕の宝物だから
君のことを抱きしめさせて それで、キスしてよ 君の恋人にするようなキスを
僕たちは友だちなんかになれないよ だって中毒になったみたいに、気がおかしくなったままだ
いっそのこと永遠のさよならをしてしまいたい その瞳が僕のことを狂わせて、世界を真っ赤に染め上げていくから
だから聞いて愛しい人 ちゃんと教えてあげるよ 何度だって、飽きるほどに
夜の闇の中で探すけれど あぁ、君の愛はどうしたって見つけられないな
二人の部屋はまるで楽園のようだ 見え透いた未来は望まない 君だけが欲しい
君の涙と嘘に溺れてみたい やっぱり今、君を僕だけのものにしたい 紳士ぶっていた自分が滲んで完全に溶けていく
今も君が好きで好きでたまらない 君のこと、骨の髄まで知りたい 「やめて」なんて言うだけ無駄
そうやめないで だって僕をこんなに狂わせたのは君なんだから
とてもきれいだ 熱く溶けるほどに君の愛をちょうだい
今この瞬間も恋に落ちてるんだから、君のことを忘れられそうにない
伏し目がちな君の笑顔 もう二度と戻れない
今も君の瞳に夢中で、とらわれたままなのに
◆考察ー大まかな流れ
まず、歌詞を見て感じた全体の印象と、その根拠になりそうな部分をざっくりと。
「Hysteria」の話を思いつくまま!
— しろみ👏🎶 (@ginzagin68) 2018年10月5日
倫理観など存在しないような、ワンルームで完結してしまうような、その空間だけがルールになるような、とてつもなく狭い世界を歌っているような気すらしてくる。空想に思えるけど、「Green light」「Yellow light」が信号のイメージを想起させるから、→
一気に現実味を帯びてくる。「二人の部屋」はもしかしたらすぐ近くにあるのかもしれないと思わせるほど。「Red light」が出てこないのは、曲の主人公の中には「止める」という選択肢がないことの表れか。 だから、Hysteria(=病的、異常な興奮)なのかもしれない。目的語はいくらでも入ると思う。→
— しろみ👏🎶 (@ginzagin68) 2018年10月5日
そして聞き手が入れるものによっては猟奇的にもなりうるし、その欠片は散りばめられていると感じた。もちろんそれも人それぞれの解釈で違ってくるものではある。解釈の幅というか、余白がある歌詞。
— しろみ👏🎶 (@ginzagin68) 2018年10月5日
さらっと流して聞いてた「二人の部屋は まるでParadise」。「まるで」って、「まるで~みたい」に使う言葉。「まるで夢みたい」なら、それは夢のような世界/出来事であって夢そのものではない。つまり、「二人の部屋」は楽園に感じるけど、楽園そのものでもなんでもないわけだ。→
— しろみ👏🎶 (@ginzagin68) 2018年10月5日
楽園と聞いてイメージするのは暖かく、健全な快楽を満たしてくれる不自由のない場所。「二人の部屋」が楽園でないとしたら、その逆の場所であると考えることもできる。
— しろみ👏🎶 (@ginzagin68) 2018年10月5日
このワンフレーズが、主人公と「君」の意識に乖離があるかもしれないと気付かせてくれた。→
少なくとも主人公は倒錯的な世界に溺れているのかもしれないとも思った。だいたい思い付きだから論理の飛躍がすごいけど!
— しろみ👏🎶 (@ginzagin68) 2018年10月5日
「Your love will never be found」の時点で一方通行だった。「like your lover」というフレーズもあるし、「見え透いた未来」っていうのは想いが通わないことなんだろうな。そうすると、勝算がないなら無理にでも体を繋げたい、という主人公の暴力的でヒステリックな思考も自然と浮かんできた。→
— しろみ👏🎶 (@ginzagin68) 2018年10月5日
この歌の主人公に対して、強い執着心と狂気を感じたのが考察のスタート地点でした。なお、「Will be mine? Be my SixTONES」については特に考えずに考察しました。
以下、順を追って考えを書き連ねていきます。
1.主人公と君の関係性
主人公と君は決して近い距離にいるとは感じませんでした。根拠は3つ。
1つ目は「I've been looking for ya」。もし近くにいるなら「探し求めてきた」というのは違和感があります。2つ目は「We'll never be friends」。もし、元々何かしらの関係性があり、その変化を表現するならば「友だちに戻れない」などという英語になるほうが自然かと思うんです。この歌詞はそのまま訳すと「私たちは決して友だちになれない」。だから、元から友だちというわけではないんだろうなと。
友だちじゃないなら恋人という可能性は、と思うのですがそこで挙げたいのが3つ目の根拠「Kiss me like your lover」。もし恋人同士なら「あなたの恋人にするみたいに私にキスをして」なんて言わないですよね。だから、恋人である可能性も消えました。
友だちでも恋人でもないなら、一体主人公と君の関係性は何なんでしょうか。
個人的に一番推したいのは、ネットストーカーのような主人公とその対象者である君という関係性ですね。冒頭のブロックに「I just wanna take you away, 一人きりじゃ Feeling so blue」とあります。「あなたを連れ出したい 一人きりじゃ憂鬱だ」ということですが、「探し求めてきた」から繋げると、これまでは主人公と君に物理的距離があったのではないかと思いました。SNS、盗聴器、監視カメラ、なんでもいいのですが、流れ的にSNSあたりでしょうか、そんなようなメディアを介して主人公は君を監視してきた。
そして、監視するだけでは満足できずついに「Wanna be your man」、「あなたの恋人になりたい」と思うようになります。「I need your lovin' lovin' lovin'」と執拗に繰り返すほど君の愛を求めるようになる。「いつでもCallin' your name」は、「いつでも君の名前を呼んでいる」ですが、その後ろには「それなのに気づいてくれない」という気持ちが隠れているように感じました。距離があるからこそ主人公の声は君には届かないこと、そして主人公が君との距離感を見誤っていることを表現しているのかなと。まさに主人公の病的な部分、狂気です。
関係性の話とはやや逸れますが、主人公の狂気に少しふれたので、ここで歌詞と演出に目を向けてみます。イントロ~「いつでも Callin' your name」までは6人とも黒い幕に包まれ、顔とグローブを付けた手だけを出していました。「I got you baby」~「離さないで Cuz you drive me crazy」で足も出すようになり、「Hysteria」で一斉に幕を剥ぎましたね。
黒い幕の動きは、主人公の狂気の表出度合いとリンクしているのではないかと考えました。SixTONES自身が主人公の「狂気」だとしたら、黒い幕はそれを覆い隠す物。つまり、序盤の主人公は狂気の片鱗しか見せていなかったものの、次第に崩れていき、1番の「Hysteria」で全てをさらけ出す、狂気が理性を上回るわけです。
2.君に対して「恋人のように」、「紳士ぶって」振る舞う主人公
膨れ上がった独占欲が弾けて、「I got you baby」、主人公は君を捕まえます。この場面以降、主人公と君は同じ空間にいて物理的に接触できる状態にあると捉えました。
狂気を孕んだ愛を持つ主人公ですが、最初から君にそれをぶつけるようなことはしていません。むしろ、健全な愛を注ぐ恋人のような態度を取っているように感じました。その根拠は3つ。
1つ目は「Let's take it slow」。あんなに「あなたの愛が欲しい」と焦がれていたはずなのに、性急に求める様子はなさそうです。「ゆっくりでいい」なんて、余裕すら感じさせます。どこから生まれる余裕でしょうか。「深まっていくBlack night」、時間のことなのか、それとも軟禁/監禁状態にあり、文字通り「捕えて」いるからなのか。「Black night」は単純に時間帯だけを指すのではなく、主人公と君のいる空間が暗いものでその暗さがこの先深まっていくことを暗示しているのではないかと思いました。
2つ目は「いくら君を忘れようとしても I just can't leave you alone」。「忘れる努力はしたけど、君を一人にするなんてできない」なんて、君に対する言い訳をします。まるで、想い合う恋人同士が何らかの障壁に阻まれて別れざるを得ない状況のようですね。「君を一人にするなんてできない」というのは、「君は僕がいなかったら寂しいだろうから」といった本音の裏返しに取りました。
3つ目は「目と目が合えば You give me butterfries だから君以外 Uh 欲しくない All that I want」。「目と目が合えば あなたは私をドキドキさせる」、目が合うだけ胸がうるさく高鳴るなんて運命だ、と言っているようにすら感じさせます。それくらいの飛躍をこの主人公はしそうかな、と。
ただ、2つ目と3つ目の部分は主人公が自分の行為を正当化するために「君のせいだよ」なんていう責任転嫁をしているようにも読めますね。後のブロックでわかってきますが、主人公は自らのあらゆることに自覚的だと思っています。
次に「紳士ぶっている」というのはどういうことか。
想いとは裏腹に「肌に触れた Your lips」と、まずキスをさせるところから始めています。「I just can't get enough その甘いFlavor」と物足りなさを感じつつ、「いつも Missing you, Missing you」、「いつもあなたに会えなくて寂しい」なんて甘えるようなことを言い、「Give me a, Give me a Green light」、「ゴーサインをちょうだい」とお願いをする。
甘えて許可をねだるなんて一見相手想いにも見えますが、「Give me a Green light」と君に選択肢を与えていません。あくまで、主人公にとっては自らの願望を叶えることが最優先事項。でも、まだ「恋人のように」振る舞いたい主人公はこの先にしようとすることに対して君の合意が欲しいと思っているんです。無理矢理ではただの犯罪になってしまう。でも合意があればその限りではない。狂気の中にも理性が見え隠れします。
この部分は「恋人」「紳士」などというワードをメインに読み取ったので、「嫌がってばかりいてがっかりさせないで」という本音が「(僕の心を)離さないで」という言葉に姿を変えているのかなと感じました。また、二度出てくる「Cuz you drive me crazy」ですが、恋愛に没頭しているような思考の主人公に宛がうなら「あなたは私を夢中にさせる」のほうが適切なので、こちらの訳にしました。
3.猟奇的な愛が牙をのぞかせる瞬間
おそらく2のときから時間は何日か進んでいます。それでも、「Girl, Just let me hold ya」と、主人公と君の精神的な距離が縮まった様子はありません。ハグさせてよ、キスしてよと相も変わらずお願いをしている。
ただ、この直後から様子がおかしくなっていきます。「We'll never be friends」を、さらに意訳して「僕たち絶対にわかり合えないね」としましょう。主人公は自分の想いが通じると思いながら、君から合意を得ようとここまで紳士ぶってきました。でも、君はそれに応じる様子がない。だから、このフレーズに行き着く。ここでメッキが剥がれ始めます。
その後に「We keep on freaking,freaking,freaking」とあります。「Freak」は動詞だと後ろに「out」をとって「(ショック、恐怖などで)異常な精神状態になる/(麻薬で)幻覚症状を起こす、興奮する」という意味になります。名詞だと「大ファン」という意味もあるのですが、この類語は「addict」=中毒者です。「Freak」は麻薬中毒のような意味と切り離せない言葉であると言えます。
歌詞に戻ります。この「Freaking」は「Keep on」に続いているので、outはありませんが動詞の意味で取りました。「私たちは麻薬でも使ったみたいにとにかく興奮している」とでも訳そうと思いますが、ここはダブルミーニングになっているようにも思います。
主人公はずっと焦がれてきた君と触れて好きにできるほど近くにいる。念願が叶い始めたことで、あり得ないくらいに興奮している。まるで麻薬中毒者がクスリをキメているかのように、常軌を逸したテンションの上がり方をしているのかもしれません。
一方の君は、見ず知らずの主人公に捕らわれただけでなく襲われかけているという、信じがたいショッキングな出来事に直面してしまい、主人公に対する恐怖や行為そのものへのショックで頭がおかしくなっている。
主人公と君の状態が違うと把握しているからこそ、「We'll never be friend」というフレーズが出てきたのかなと思いました。
その後には、「I just wanna see you again」と続きます。「君とさよならしたい」という意味ですが、「See you again」は「またね」などという軽い言葉ではなく、「ここで別れたら二度と会えなくなるかもしれない」という重い意味を持っているそうです。
狂気に満ちた主人公の言う「さよなら」は単純に物理的な距離をあける「さよなら」ではないと考えました。麻薬中毒のように気をおかしくさせるのは君の瞳なわけです(「その瞳がMake me insane」)。でも、気がおかしくなっているから君とはわかり合えないのかもしれない。それなら、いっそのこと今ここで自分の手で、君と二度と会えなくしてしまえばいいんじゃないか。そんな気持ちが「see you again」には込められているのではないかなと思いました。
また、慣用句ではなく単語の意味だけで取って「again」を「次の人生」なんて表現して、「来世でも会いたいな」なんて超訳的な解釈も一緒に添えておきます。
「in pink」はピンク色と訳したほうがいいのかなと思いつつ、この状況の「ピンク」は限りなく「赤」に近いショッキングピンクのような色だろうと考え、あんな感じに訳しました。興奮で頭に血が上っているなんて言いますよね。そのイメージです。ただ、正直もっとうまい訳し方がある気がしています。
4.倒錯的な世界に溺れる主人公
「So listen baby~」からを一つのパートにしました。3同様、ここでも時間は経過していると解釈しています。
軟禁/監禁状態で 主人公は君に呼びかけます。「I'll break it down 何度だって Round&Round」と。これは、なぜ今こんなふうに身体を自由を奪っているのかという理由を説明する、と取りました。気持ちが君に伝わっていないから君はそっぽを向いたままなんだ。わかってくれれば絶対に振り向いてくれる。だったらいくらでも気持ちを教えてあげる、という意味が込められているように感じました。
次の「夜の闇の中を探すけれど Your love will never be found」というフレーズが、その結果を示しています。君を捕えて、次第に明度を無くしていくような空間の中で行為を続けながら君の気持ちが主人公に向く兆しがないか探るけど、気持ちは向かないどころか「決して見つけられない」=存在しない。この先も君が主人公を好きになることはないと突き付けられます。
そして「二人の部屋はまるでParadise 見え透いた未来 Uh 望まない All that I need」で、主人公の行動はすべて自覚的だったこと、狂気すらも熱に浮かされていたわけではなかったことがわかります。主人公が猟奇的であることが、ここにきてくっきりと浮かび上がってくる。
「見え透いた未来」の「未来」は「We'll never be friends」の「will」、「Your love will never be found」の「will」を指しています。主人公と君の想いが交わらない、友だちにも恋人にもなれない。そんなことは最初からわかっていました。透けて見えるほどわかりきっていたことでした。
さらに、今二人がいる部屋が楽園でもなんでもないこともわかっています。連れ去ったうえ、真っ暗な部屋で残忍なことをして、その結果、君がショック状態に陥っている。主人公の気持ちと君の気持ちは絶対に交わらないし、どんな関係にもなることができない。君にとっても主人公にとっても「絶望」の二文字しかない空間が、苦しみのない幸せな空間であるはずがないんです。だから「まるで」にしかならない。
それでも尽きない独占欲と執着心が「All that I need」のワンフレーズに集約されています。想いが交わらない未来なんていらないと、主人公には君だけが必要だと。
ここからは、主人公が倒錯的な世界、欲望に身を沈めていったように感じています。
「溺れてみたい Your tears,Your lies」。主人公の行動に対して、君は嫌がる一方どうしても身体が反応してしまう部分があります。主人公には、君の理性と本能がせめぎ合う様子を見ていたい、その様子に溺れてみたいという思いがあるのかなと思いました。涙が本能で、嘘が理性。涙が理性で、嘘が本能。いずれにも取れると思いますが、ここは前者を推します。ここにきてもなお、抵抗するのが「嘘」だと感じていたら主人公がより一層猟奇的に見えるかなと思うので。
「I wanna get you now」は、もう体を繋げてしまいたいというふうに読みました。その考えが浮かんできたことで、「滲んでく Make up」という状態になる。「Make ~ up」には「~を構成する/完全なものにする/~に化粧する」などという意味があります。何かを完全に作り上げていくイメージですね。
省略された「~」を「me」にして、「Make me up」と読み取ると、2で触れた「紳士ぶっている主人公」の姿が立ち上がりました。一応、途中までの主人公はお願いしたり尋ねてみたりしていましたね。ひどく興奮した場面もありましたが、それはあくまで一般的な欲望を満たせることに対する喜びに起因するものと考えられます。
ですが、この段階の主人公はもう「紳士」の欠片が「滲んでく」、つまり溶けてなくなっていく状態にあります。もう何も我慢できないほど、塗り固めた虚像が剥がれ、崩れ落ちていったんだろうなと。
「今もDigging you,Digging you」は、体を繋げて奥深くまで知ろうとすることと、動きそのもの、二つの意味がかかっているのかなと考えました。「Dig」は「掘る」という意味に加え、スラングで「理解する/好き」という意味があります。「掘る」という言葉は主人公の動きそのものと重なりますし、それによって「理解する」=君を知るということにも繋がるのかなと。「今も」というのは、「I wanna get you now」を遂行したことを受けての「今も」かなと読んでいます。また、単純に「今も好きでたまらない」という意味でもとれます。
「見えない Yellow light,Yellow light」は、主人公のもう後戻りするつもりはないという気持ちや、制止の声が耳に届かない状態を表現しているフレーズだと考えました。ただ、「Yellow light」を嫌がっているわけではないんです。続く「そうやめないで」はおそらく、「Yellow light」つまり「制止の声を上げること」を目的語にとっています。抵抗する様子は主人公の気持ちを高める材料にしかならない。
一見、「やめてと言っても無駄」「やめてと言うのをやめないで」というフレーズは矛盾するように見えます。ですが、前者は制止の声が主人公にとって本来の意味を無くしていること、後者は制止の声が主人公にとって煽るような意味を持つことを示していると読めば、なんとかいける解釈なのではないでしょうか。
ここの「Cuz you drive me crazy」は、主人公が自分の行動や思考、自分が「Hysteria」=病的に興奮していることに自覚的であることを汲んで「君が僕を狂わせるんだから」と取りました。「crazy」には、こんなふうに軟禁/監禁させて無理に体を繋げなきゃと思わせたのはつれない君なんだから、という気持ちが含まれているのではないかと思います。
5.猟奇的な愛と執着心の終着点
4までの異常な興奮状態は落ち着いた印象です。ただ、主人公の異常さがなくなったわけではなく、変わらずにあります。
「So beautiful」の一言は、主人公が恍惚としている光景が浮かびました。願望を叶えて、満足している状態で目にする世界はさぞ美しいものだろうと思います。おそらく、このブロックでは君も抵抗する気力を無くして闇落ちしているんだろうなと推測しました。「伏し目がちな Your smile」は、泣くのも怒るのも全て諦めた末に思わず笑ってしまうような表情かなと想像しています。もしくは、主人公には君が笑っているように見えているだけか。
「もう二度と戻れない」ですが、これはどこに戻れないと言っているのか。2つの取り方がある気がしています。1つ目は君を捕えて、体を繋げる前の世界。2つ目は君が死んでしまう前の世界。特に推したいのは2つ目の解釈です。
「死」という発想が出てきたのは、「伏し目がちな Your smile」と「今も Lost in your eyes...」のフレーズがあったから。3つのフレーズがそれぞれ絡み合って、2つ目の解釈が生まれました。
まず1つ目のフレーズですが、目が閉じ切らないまま亡くなることは全然あります。それを思い浮かべました。主人公に好きにされているうちに、プツっと命が途切れてしまったような、そんな感じです。
そして2つ目ですが、これは一番最後の三点リーダーが肝だと思っています。三点リーダーはつなぐ記号です。つまり、文章はここで終わっておらず、何かしらが続くと解釈できます。続く文章の前に「...」の訳を解釈しますが、ここでは「なのに」と訳しました。「Lost in」は「夢中になる」という意味があり、そこに「Lose」の「迷う」という意味をニュアンスで付け足して「君の瞳の中で迷子になっている」=「夢中でとらわれている」としています。この二つを組み合わせると「今も君の瞳に夢中で、とらわれたままなのに」となります。
「なのに」は逆接の接続詞です。「AなのにB」は、AとBが矛盾した内容であることを示します。歌詞に照らし合わせると、Aにあたる部分は「君の瞳に夢中で、とらわれたまま」になります。この内容と矛盾するものを考えると、瞳との距離がある状況を思い付きました。その状況はどんな場合に生まれるかというと、会えない状況に陥った場合です。会えない状況は、単純に距離を置くというのもありますが、この曲の中ではそれだとライトすぎます。
そこで注目したいのが、このフレーズの前にある「もう二度と戻れない」、3で主人公が抱いた「I wanna see you again」=永遠のさよならをしてしまいたい、という気持ちです。これらを合わせると、命がついえてしまうことで会えなくなると考えるのが自然かなと思いました。
君が死に、まぶたがちゃんと開かなくなってもなお、君の瞳に囚われている、夢中だと言い切る主人公からは、死に対する悲しみが感じられません。どちらかというと、瞳に狂わされるということができなくなったことに対する悲しみや失望を抱いているのかなと思いました。
歌詞を最後までさらいましたが、一貫して主人公は狂っているというのが私の見解です。君が存在する限り、主人公の病的な興奮は収まらない。なぜなら君そのものが主人公の病的興奮の源だから。主人公の想いは、君が死ぬことでようやく終着するのかもしれません。
◆考察ー部分的な要素
ここからは、部分的で上記はうまく混ぜ込めなかったものの、大筋考察の補強になった考察や、部分的な考察、別の解釈を書いていきます。
1.冒頭の音について
イントロに入る前、いくつかの音が鳴ります。どんな音か答えはないですが、以下の3つに分けて考えました。
・鳥が羽ばたく音
・風が吹く音
・電流が流れる音
この順番で音が流れるのは、自然(鳥)と人工(電流)の対比で君と主人公の距離を表現していると考えました。君が自然、主人公が人工ですね。象徴とするものが対極にあるという意味でも、主人公と君の間には埋めがたい距離があるのかもしれないと思いました。風についてですが、風は自然発生するものでもあり、機械で巻き起こせるものでもあるので、自然と人工の中間に位置するものかもしれません。
音の流れる順番と音の内容は歌詞全体の流れともリンクしています。まず順番ですが、自然=君と主人公の関係性に何も手が加えられていない状態、人工=関係性、空間が作られた状態=まるで楽園のように感じる二人の部屋、となり、冒頭の音が関係性の変化を示唆していると取れます。
そして内容ですが、鳥を君としてとったのには理由が2つあります。
1つ目は、歌詞中にある「butterfries」の持つ「羽ばたく」イメージと「鳥」が共通しているということ。「You give me butterfries」は「あなたが私に蝶々をくれる」=あなたのくれた蝶々が胸の内を飛び回る=「ドキドキする」というふうに解釈したのですが、これを主人公と君に置き換えれば、蝶々をあげるのは君で、もらうのは主人公になります。蝶と君を紐づけて考えても違和感はないと思い、蝶と鳥を君のイメージとしました。
2つ目は、鳥がバタバタと羽ばたくような音を立てていたこと。鳥を君のイメージとすれば、君が羽を激しく動かすような状態にあると考えられます。その状態が生まれるシチュエーションを想像したとき、歌詞の内容から「主人公に捕まり抵抗している状況/主人公に捕まりそうになりジタバタと暴れている状況」が思い浮かびました。一番最初に鳥のはばたく音がきていることは、歌詞のストーリーと照らし合わせても矛盾はありません。
風の音の解釈はそこまで進んでいないのですが、鳥の羽ばたく音と入れ替わりで聞こえてきたので君が主人公に捕まったか、捕まった後に抵抗をやめたことを示しているのかなと思っています。また、電流の音と入り混じって次第に電流の音へ変化していくのですが、これは主人公が君の領域に踏み込み、次第に侵していくことを表現しているのかもしれません。
電流の音を主人公ととったのには、電流の持つイメージが影響しています。電流というものは安全なものではありません。触れれば感電したり、痛みや苦しみを覚えたりします。君に痛みや苦しみを与える存在=主人公とすると、イメージがぴったり重なるのでこんなような解釈をしました。
ただ、鳥の羽ばたく音と電流の音はもう少しポジティブにとれるとも思っています。比喩表現で「電流が走る」というものがあります。強烈な印象を受けたときなどに使いますが、代表的な使用として挙げたいのが恋に落ちたとき。「彼女を見て電流が走った」などと表現することがありますよね。これはそのまま主人公の心情になり得るのではないでしょうか。こう解釈したとき、鳥の羽ばたく音は自由気ままに、意識的にか無意識にか主人公を惑わすように振る舞う君を表現していると読むことができます。
2.「Green light」「Yellow light」の解釈
歌詞解釈では主人公が君に求める言葉、君自身の言葉としてとりましたが、行動そのものが次第に危険に、過激になっていくことを示している可能性もあると感じました。信号は青、黄、赤の順番で灯っていきますが、歌詞も「Green」「Yellow」と順番に進んでいるんですよね。登場していませんが、まるで「Red light」に向かうかのように。
また、大災害が起きたときなどに行うトリアージも同じ色分けになっていますね。一刻も早く治療すべき人、つまり危険な状態にある人が赤、その次に治療すべき人が黄、緊急の治療を要さない人が緑。こういった観点からも、ここの冒頭で書いた解釈があり得るのではないかと思いました。
3.単語/フレーズの繰り返し=主人公の執着心
歌詞の中で印象的だったのが、単語やフレーズを繰り返す場面が多いこと。「lovin' lovin' lovin'」「Missing you,Missing you」「Give me a,Give me a」「freaking,freaking,freaking」「Round & Round」「Digging you,Digging you」「Yellow light,Yellow light」と7箇所ありました。繰り返すことでその意味を強調したり、テンポが良くなったりという効果を狙っているのかもしれません。
ただ、単語/フレーズの繰り返しというのはネガティブに言いかえると「しつこさ」になります。この歌の主語は一貫して主人公です。つまり、繰り返している=しつこさを持っている人は主人公であると解釈できます。しつこさの対象はもちろん君です。こういうところから、主人公は君に対してかなりの執着心を持っていると思いました。
4.心中ソング/独占欲の果てに殺すソング/不倫or浮気ソング
歌詞解釈では君が死んでしまったという解釈に自然と落ち着きましたが、タイトルの通りほかにも3つの解釈があり得るのではないかと思っています。いずれの解釈も全体を通してするのが難しかったので、ここでまとめて書きます。
心中ソングの根拠は「今も Lost in your eyes...」です。「...」とここだけ文章が途切れているような印象を受けました。「伏し目がちな Your smile」が亡くなってしまった君の状態だとしたら、それを見ながらすでに違う世界(=死後の世界)にいる君に想いを馳せている最中でこと切れた情景が浮かびました。君が死んだなら僕も死ぬ、といった感じです。実際はこのフレーズの後にも歌詞は続いているのですが、既出フレーズだったので考えには入れていません。
独占欲の果てに殺すソングの根拠は「I just wanna see you again」です。主人公はわりと狂っているので、独占欲が強すぎるあまり自分の手で殺してしまいそうな気がしました。これについては、次の項目でも触れていますが阿部定事件における犯行の動機に近いものがあるかと思います。カニバリズムの一歩手前のようなイメージですね。
そして不倫or浮気ソングの根拠は、「Girl,Just let me hold ya」~「We keep on freaking,freaking,freaking」です。「Kiss me like your lover」は主人公が不倫もしくは浮気相手だからこそ出る言葉だと思いました。また、「We keep on freaking,freaking,freaking」と私たち=主人公と君が一緒におかしくなっているのいうのは、不倫もしくは浮気している状況を共有しているからこそ出てくるフレーズに感じます。
ほかにも「Missing you,Missing you」=君に会えなくて寂しいと言っていたり、「Wanna be your man」=君の男になりたいと言っていたり、自由に会えない関係性であることを示すフレーズが散らばっています。深められそうと思いましたが、長くなりそうなのでまた別の機会があったらそのときにでも。
5.カニバリズムの要素
人間が人間の肉を食べる行動、または習慣のことをカニバリズムといいますが、歌詞の読み方によってはカニバリズムの要素があると感じました。
「Your lips,so red」の赤は血を指していて「君の唇が血に濡れている」、その後の「I just can't get enough その甘いFlavor」はまさにそのまま。甘い味がするのは君の肉で、まだ食べ足りないということなのかもしれません。また、「I wanna get you now」の「get」は食べるという意味を持ちます。食べ始めたとしたら、「Digging you,Digging you」を君の体の中の中まで食べ尽くしたいくらいの訳をしてもいいのかな、と思います。
カニバリズムという発想は主人公が強い独占欲を持っていると感じたところから生まれました。実際に起きた事件でいうと、昭和11年に起きた阿部定事件に近いものを感じています。女性が不倫相手の男性を殺害、局部を切断し3日後に逮捕されるまで持ち歩いていたという有名な事件です。彼女は殺害した理由を「彼を殺せば他のどんな女性も二度と彼に決して触ることができないと思い、彼を殺した」と話したそうです。これは歌詞の本筋で解釈した部分と重なるように思います。余談ですが、切断し持ち歩いていたのは、不倫相手の男性の体を持ち歩き、いつも側にいたかったからだそう。愛ゆえの狂気ですね。
食べるという行為は栄養を摂取するための行為ですが、見方を変えれば栄養素を自分の肉体と一体化させる行為とも言えます。もしカニバリズムだとしたら、主人公の行動原理は君への強すぎる想いになるのかもしれません。君を想うあまり、君と一体化したくなったという感じですね。ひとつになることの究極です。
以上です!ここまで読んでいただき本当にありがとうございます。
想定していたよりもずいぶん長くなったうえ、ずいぶんと偏りのある解釈になりましたが、「Hysteria」の歌詞とがっぷり四つに組み合えた感じがして満足しています。楽しかった。論理が破綻している気がしますが、気づいたら後でこっそり直します…
書き終わるまでいろいろな方の解釈や和訳を読むのを我慢していたので、読み漁ってきます。わくわく!
また、これを読んで興味がわいた方は、ぜひSixTONESの「Hysteria」をご覧になってください!テレビでしたら来月の少クラセレクションスペシャルでご覧いただけるかと思いますので、ぜひ!独特の世界観とパフォーマンスに圧倒されます。めちゃくちゃかっこいいです。
それでは!
永遠ではないと、わかっているけれど――King & Prince「シンデレラガール」で彼らがファンに立てた誓い
King&Prince(キンプリ)の「シンデレラガール」は、デビュー曲として100点満点!なぜなら、彼らがファンに対する誓いを立てているから!
そう思った理由を、歌詞の考察を基に説明していきます。
1.「シンデレラガール」の二面性
2.ある女の子に片想いする男の子の心情
・ドラマ「花のち晴れ」と映画「シンデレラ」の関連性
・映画「シンデレラ」を用いて立場の逆転を考える
3.キンプリからファンに対する誓い
・「永遠」はないと、わかっているけれど
・「恋」が思い出に変わるとしても
・夢の中に、「ボク」は現れている?
4.おしまいに
深読みがすぎる部分などもあるかもしれませんが……、いってみましょう!(※歌詞は2018年5月4日放送のザ少年倶楽部のテロップを参照して書き起こしました)
キミはシンデレラガール My precious one
You're the only flowering heroine
どんなときも ずっとそばで まぶしいその笑顔見せて
やがて シンデレラガール 魔法が解ける日が来たって
いつになっても 幾つになっても
ボクはキミを守り続ける
I wanna be your sunshine
Because your smile has the magic
I wanna always be your sunshine
Always makes me happy!!
PM11時間近の にぎわう街並みに
まだサヨナラ言うには 全然早すぎるのに
わりと門限きびしいって そんなのちゃんと分かってるって
だけどやっぱ いざとなると帰したくない
次に会える約束も そこそこに駆け出す人
長い階段駆け上がって 人波に消える
キミはシンデレラガール My precious one
You're the only flowering heroine
いつになっても いつになっても となりでその笑顔見せて
やがて シンデレラガール 魔法が解ける日が来たって
いつになっても 幾つになっても
ボクはキミを守り続ける
I wanna be your sunshine
Because your smile has the magic
I wanna always be your sunshine
Always makes me happy!!
キミが思うより ボクはキミを想ってる
キミはボクが思うよりも ねぇ ボクを想うのかな?
だれもがみんな嘆いてる ”恋の魔法には期限がある”
”時がたてば 宝石もガラス玉さ”
もしもそんな日が来たって キミは朝の光にかざして
それを耳元に飾るだろう ボクはまたキミに恋するんだろう
AM0時の鐘を聴く頃に キミはどんな夢見てる?
もしもボクに魔法がつかえたなら 夜空越えて会いにいけるのに…
キミは シンデレラガール My precious one
You're the only flowering heroine
どんなときも ずっとそばで ボクの心 灯しつづけてキミはシンデレラガール My precious one
You're the only flowering heroine
いつになっても いつになっても となりでその笑顔見せて
やがてシンデレラガール 魔法が解ける日が来たって
いつになっても 幾つになっても ボクはキミを守り続ける
I wanna be your sunshine
Because your smile has the magic
I wanna always be your sunshine
Always makes me happy!!I wanna always be your King & Prince
―――――――――
1.「シンデレラガール」の二面性
まずは、どんなことを歌っている曲なのか、歌詞を読んだ印象でざっくりと2つにまとめました。
①ある女の子に恋する男の子の心情
これは、素直に歌詞を読み取った結果です。「ボク」が「キミ」を追いかけてるので、片想いなんでしょう。
②キンプリからファンに対する誓い
特に2番の歌詞は、ファンに対するメッセージ性が強くなっていると思います。さらに、キンプリからファンに対する想いも込められているのではないでしょうか。
全体的に「シンデレラ」の時限的な部分による切なさのようなものがありますね。「AM0時の鐘」、「魔法」など、おとぎ話のような要素も散りばめられていて、まるで一つの童話を読んでいる気分になります。
では、まずは①の方向から、次に②の方向から歌詞を分析をしていきます。
2.ある女の子に恋する男の子の心情
◆ドラマ「花のち晴れ」と映画「シンデレラ」の関連性
男の子(ボク)を王子様に、女の子(キミ)をシンデレラに例えて歌詞は綴られています。この例えは、「シンデレラガール」がドラマ「花のち晴れ」(花晴れ)の主題歌であることに起因していると考えられます。
ここで、ご存知の方ばかりかとは思いますが、「シンデレラ」のあらすじを紹介します。
映画『シンデレラ(1950年)』ネタバレあらすじ結末|映画ウォッチを参考にさせていただきました。
両親とともに大きなお屋敷に住んでいたシンデレラは、ある日、母を亡くしてしまいます。父は、シンデレラのことを思って再婚したのですが、父の死後、継母や義理の姉妹たちの態度が豹変。シンデレラをこき使い、浪費し、お屋敷はいつしかボロボロになってしまいました。
シンデレラはつらい思いをしながら屋根裏部屋に住んでいましたが、どんなにつらくてもいつか夢は叶うと希望を捨てずに日々を過ごしていました。
そんなある日、王子の花嫁を選ぶ舞踏会がお城で開かれることになりました。国中の年頃の女性は全員参加するよう命じられたものの、シンデレラは継母らに意地悪をされ舞踏会への参加を諦めかけてしまいます。しかし、妖精の魔法によって舞踏会へ行けることになりました。ただし、「12時の鐘が鳴り終わると魔法が解ける」という条件付きで。
舞踏会で王子とシンデレラは一緒に踊り、会話をし、恋に落ちました。しかし、12時の鐘が鳴り始めてしまったのでシンデレラは急いで駆け出します。魔法が解ける前になんとか城の外へ出られましたが、履いていたガラスの靴を落としてきてしまいました。
翌日、お城から「ガラスの靴の持ち主を王子の花嫁にする」と通達が出ました。紆余曲折あり、ガラスの靴はシンデレラが履いていたものということが明るみになり、二人は晴れて結婚し、幸せに暮らしました。
花晴れの主人公・江戸川音は社長令嬢でしたが、父の会社が倒産。ボロアパートで母と二人暮らしする”庶民”になります。一方、もう一人の主人公(でいいのかな)神楽木晴、そして音の婚約者・馳天馬は御曹司。いわば”王子様”です。
庶民と王子様。まさに、シンデレラの構図と同じですね。
◆映画「シンデレラ」を用いて立場の逆転を考える
「シンデレラガール」で女の子の心情は明らかにされていません。ただ、2番の歌詞「キミが想うより ボクはキミを思ってる キミもボクが想うよりも ねぇ ボクを想うのかな?」から、男の子が片想いをしていることが分かります。
2話で、音は現状に対して心苦しさと申し訳なさを抱きつつ天馬と両想いであり、晴は音へ片想いしていることが明らかになりました。
花晴れの原作を読んでいないので今後の展開は分かりませんが、現段階では晴の音に向けた心情をつづった歌詞と言っても間違いではないでしょう。
「キミ」の想い、「キミ」がどんな夢を見ているか、「次に会う約束」もしっかりしたものではなく、曖昧なもの。分からないことが多い関係です。
また、「長い階段駆け上がって人波に消える」という歌詞からも、片想いであることがうかがえます。
「シンデレラ」でシンデレラが長い階段を急いで駆け下り、お城を後にするシーンがあります。映画では王子が階段の「上」から駆け降りるシンデレラを見ていますが、歌詞では「ボク」が階段の「下」から駆け上がる「キミ」を見ています。ここから、王子とシンデレラの立場が映画と曲とで異なっているのではないかと考えました。
優位にある方が上の位置にある、というのは何を見ても共通しています。身近な例を挙げるならば、あまり想像したくないことですが土下座があります。これは謝る人が許しを請い、地面に手や膝をつき、姿勢を低くします。そのとき、謝られている人の方が上から土下座をする人を見る形になりますよね。ほかにも、敬意を表する場面なども想像がつきやすいと思います。
ただ、階段を用いて表していることは「シンデレラ」と「シンデレラガール」では違います。前者は身分、後者は恋愛における立場です。
「シンデレラ」は、設定に加え、王子とシンデレラは舞踏会の時点で両想いになっていますから、身分の違いを表現していると考えられます。一方、「シンデレラガール」では身分の違いだと矛盾が生じます。なので、「ボク」と「キミ」の想いの違いを表現していると言えます。惚れた弱み、なんて言葉もありますが、恋をした人は想い人にどうしたって勝てない。どうしたって、想い人のほうが優位になるんです。
こういったところから、曲、ひいてはドラマではシンデレラ、つまり「キミ」優位に立場が逆転していると読み取り、男の子の片想いソングだと結論づけました。
3.キンプリからファンに対する誓い
◆「永遠」はないと、わかっているけれど
2でも書いたように、「シンデレラガール」は「ボク」の「キミ」に対する想いを歌っています。あくまで一対一の関係ですね。
ここで視点を変え、「ボク」をキンプリ、「キミ」を不特定多数のファンとして歌詞を解釈していきます。アイドルが擬似恋愛の対象と捉えられる側面もあると考えれば、彼らとファンに置き換えることにも無理はないでしょう。
では、なぜ「キンプリからファンに対する誓い」になるのか。それは、彼らが「永遠に続くものはないとわかっている」という前提を歌っているからです。そして、それこそが個人的にすごくこの曲が刺さった理由でもあります。
彼らが歌う「前提」を具体的に感じたのは以下の二つの歌詞でした。
「やがてシンデレラガール 魔法が解ける日が来たって」
「恋の魔法には期限がある」
一般的に、アイドルのファンは女子中高生がボリュームゾーンと考えられています。自分のことを思い返しても、中高生のときはジャニーズ好きな人が多かったです。追いかける程度に差はあれど、CDを買ったり曲を聞いて覚えたり、雑誌やテレビ番組を見たり。「このグループなら○○くんが好き、かっこいい」というのは、クラスの女の子同士でも共通の話題になり得ていました。
そして、同時に中高生ファンの「好き」は「恋」であるとも考えられがちです。夢を見がちな年頃だからなのか、夢中になれるだけの時間がたっぷりあるから、見えている世界が狭いから……、と、そう考えられがちな理由はいろいろありそうですが、それをつっつくのはまた別の機会にして……。
もちろん、彼女たち全員がアイドルに対して、恋愛に似た感情を抱くとは言えません。ただ、「同担拒否」という言葉が存在するのは、アイドルを「彼氏」、つまり一対一の関係性を築いている存在として見ている層がいるからでしょう。「自分が彼のことを一番に知っている」というファン同士でのマウンティングも存在しますよね。
でも、ファンが中高生でいられるのは合わせてたったの6年間。限りがあります。永遠に中学生、高校生ではいられません。
高校を卒業したら、大学に進学したり就職したりします。学問や仕事を通して出会う人や知ることが増え、見える世界がぐっと広がります。そうすると、彼女たちの目には今まで見えていなかったものが見えてくる。アイドルは偶像なんだ、と気付く。
それが、「魔法が解ける日」です。
アイドルが好きで好きでたまらなくて、「恋」をしていたときは気づいていなかったけれど、それは「恋の魔法」にかかっていただけなんだ、と、気付くときがやってきます。
だから、年齢を重ねていけば「同担拒否」という言葉も聞く機会が減りますし、現実の世界で恋人を作ったり、結婚したりしたりする人が増えます。そして、「恋」ではなく、違う感情でアイドルを応援するようになる人が増えていくわけです。
こんな前提を、キンプリは「シンデレラガール」で歌っています。
ファンがいつまでも熱狂的に、まるで恋に落ちているかのような温度で、全ての熱量を注ぎ込んで自分たちを応援してくれるとは思っていません。永遠はないと、わかっているんです。
でも、彼らは突き放しません。
まず1つ目、「やがて シンデレラガール 魔法が解ける日が来たって」の後は、「いつになっても 幾つになっても ボクはキミを守り続ける」と歌っています。
彼らがファンを「守り続ける」のには期限を設けていません。さらに、年齢も問うていません。守る、というのはファンの存在というより、ファンの笑顔と解釈したほうが通りがいいかもしれないです。「となりでその笑顔見せて」「Because your smile has the magic」と歌っていますからね。
次に2つ目、「”恋の魔法には期限がある”」の後は、さらに「”時がたてば 宝石もガラス玉さ”」と続きます。ですが、その後で「もしもそんな日が来たって(中略)ボクはまたキミに恋するんだろう」と歌うんですよね。
今はファンだとしても、時がたてば離れてしまうかもしれない未来があることもわかっています。でも、彼らは「キミに恋するんだろう」、つまり、ファンに恋をする。ここでは、大切に想う、くらいの意味でとると個人的にはしっくりきました。
こんなふうに、「永遠ではないとわかってるけど、大切にするから笑顔を見せていてね」と歌った上で、最後に「ボク(たち)はいつでもキミ(たち)の笑顔を守る王子でいるよ」と誓ってるんですよね、この曲。
「シンデレラ」と「シンデレラガール」では王子様とシンデレラの立場が逆転していると2で書きました。
それは、キンプリとファンという文脈でも生きてくるんです。あくまで「キミ」(=ファン)が「長い階段駆け上がって」いくシンデレラ。成長して、広い世界(=人波)に消えていく。「ボク」(=キンプリ)は、「帰したくない」と思いつつ、階段の下から見ている王子様。
あくまでこの曲中では、ファンがキンプリに対して優位なんです。
いや、もうキンプリちゃんたちがひざまずいて忠誠を誓ってくれるなんて、最高すぎませんか!? もはや全てを手放して「最高~~~~~~!!!!!!!!!!好き~~~~~~~!!!!!!!!!」とだけ叫んでいたい。
以上のことから、グループ名にもふさわしく、なおかつ「ファン」へのメッセージも込められている「シンデレラガール」は、名刺になるデビュー曲として100点満点どころか100億点あげたくなるほど、最高だと思いました。
◆「恋」が思い出に変わるとしても
なんとなく前項でキリがいい気はしますが、まだ言及したい箇所があるので続けます……!
ファンへのメッセージ性の強さもさることながら、全体的に漂う「切なさ」もこの曲をさらに魅力的にしていると思っています。具体的な部分は2つあります。1つ目はこちら。
「”恋の魔法には期限がある” ”時がたてば 宝石もガラス玉さ” もしもそんな日が来たって キミは朝の光にかざして それを耳元に飾るだろう」
先ほどピックアップした部分と同じですが、今度は「”時がたてば 宝石もガラス玉さ”」のあたりに注目していきます。
ここでの「宝石」は、「キミ」が彼らを「ファン」という立場で追い掛けている時間を指すと考えました。
宝石は「美しさと耐久性および希少価値とを兼ねそなえ,装飾用や財産としても高く評価される鉱物」、「美しい光彩をもち、装飾用としての価値が高い非金属鉱物」*1です。きれいで、値段も5桁以上はする高価な装飾品ですね。だから、人はみんな大事にします。
ファンにとって、応援しているアイドルを見たりアイドルの歌を聞いたりして過ごした時間は、すごく価値のあるものです。だからコストを費やすし、それに対する抵抗もない。コンサートで彼らと過ごす時間や、メディア上で受け取る彼らの姿・声は、「宝石」と同じように美しく価値があり、大事にしたいものだと思います。
一方の「ガラス玉」はどうでしょうか。例を挙げるとしたらビー玉が一番わかりやすいと思いますが、ビー玉は何十個かまとまって入った状態で販売されており、子どもの遊びなどに使用するものです。値段は1個なら10円前後、まとまった状態でも1000円前後で買え、宝石と比べたら断然お手頃ですね。
時がたってファンでなくなれば、彼らと過ごした時間の価値は下がります。過ごしてきたさまざまな時間の中に、紛れ込んでしまうようなものになります。
ただ、無価値、無意味なものになるわけではないんです。もし、価値も意味もないものになるんだとしたら、「ガラス玉」ではなくて「ただの石」でもいいはずですから。
先ほども書きましたが、「ガラス玉」は子どもが遊びに使ったりします。他にもラムネ瓶に入っていたり、ノスタルジックな記憶と結びつきがちなアイテムです。そこがミソになります。
「キミ」がファンでなくなったとき、彼らと過ごした大事な時間は、「キミ」にとって思い出になる。
こんなふうに読み取ることができます。恋した時間が思い出に変わる、とも言えるかもしれません。「もしもそんな日が来たって キミは朝の光にかざして それを耳元に飾るだろう」と続いていることからも、「キミ」にとってファンとして過ごした時間が無価値、無意味になるとは歌っていないと言えるでしょう。
ただ、もう宝石ではないからすごく大事にはしないんですよね。もしかしたら落としてしまうかもしれないし、無くしてしまうかもしれない。他に「宝石」があるのかもしれない。
けど、あのときは楽しかったなぁ、キラキラしていたなぁ、などという感慨に耽りながら、その思い出で自分を”飾る”。
と、そんなこともわかっているキンプリ……!そして、わかっていながら「またキミに恋するんだろう」なキンプリ……!
今、大切にしているファンがファンでなくなるときが来るかもしれない。けど、その時々のファンを自分たちは大切にしていく、ということかなと思い、今のファンだけではなく将来ファンになるであろう人のことも、もはや抱きしめているキンプリに感心してしまいました。
書きながら考えてみると切ないだけではありませんが、ファンの心情の移り変わりすら受け止めているキンプリに悲壮感に近いものを感じたのかもしれません。だから、切ない印象のほうが強いのかな~。
◆夢の中に、「ボク」は現れている?
もう1つ切ないポイントが。こちらです!
「AM0時の鐘を聴く頃に キミはどんな夢見てる? もしもボクに魔法がつかえたなら 夜空越えて会いにいけるのに…」
夢にまつわるおまじないやお話って、いろいろありますよね。たとえば、「夢に出てきてほしい人の写真を枕の下に入れると、その人の夢を見られる」っていうおまじないとかありませんでした? 写真や雑誌の切り抜きを枕の下に入れて、好きなアイドルの夢を見よう、みたいな。
歌詞に目をやると、「ボク」は「キミ」がどんな夢を見ているのか気になっていますよね。気になっているというのは、「ボク」の夢を見ている自信がないことの裏返しとも取れます。曲中での立場は、あくまで「ボク」が「キミ」を追いかけていて、「キミ」のほうが優位にあります。だから、絶対に「ボク」の夢を見てるよね、なんて言えない。
でも、「どんな夢見てる?」の後に、実は「ボクの夢を見ていたらいいのに」が続くと思うんです。「ボク」(=キンプリ)は「キミ」(=ファン)の夢の中に「ボク」が登場していたらいいな、という願望。そしてそれは、「キミ」が夢を見たいと思う対象として他でもない「ボク」を選んでいてくれたらいいな、という願いでもあると思うんです。
ただ、どんな夢を見ているのか実際はわからない。だから、会ってしまえたらいいのに、と思うのではないでしょうか。
でも、続くのは「もしもボクに魔法がつかえたなら」という歌詞。「もしも」は現実になっていないことを仮定するときに使う言葉です。「ボク」は魔法なんて使えないし、夜空を越えて「キミ」に会いにいくこともできないとわかっているんですよね。
こんなふうに、わかっていることばかりだった彼らにも、唯一わからないことがある。それが、「キミ」の心なんです。だから!!!!切ない!!!!
どれだけ時がたっても、どれだけ年を重ねても守り続けるし、「キミ」が想う以上に「ボク」は「キミ」を想っている。でも、「キミ」が恋の魔法に気付いてしまうときはやってくるし、今だって「キミ」の心はわからない。ちらっと見える不安が!!!!切ない!!!!
でも、基本的に「キミ」への想いを歌ってくれているんですよね。不安だって、「キミ」を想うがゆえのもの。健気!!!!!
変わるもの/変わりうるものと、変わらないもの。そんな対比が切なさを感じさせる理由かもしれません。
4.おしまいに
アイドルとファンの関係性は、「追われる立場/追う立場」と捉えられがちです。実際そうだと思います。コンサート会場へ足を運ぶのはファンだし、雑誌やCDを買うのもファン。便せんを買い時間を費やして書いたファンレターを送っても、返信が必ず届くわけではありません。それでも、好きだから、彼らの姿を見たいからという一心で、応援し、動くわけです。
でも、その気持ちだって無限に湧き出てくるわけではありません。他に夢中になるものが出来たり、他に好きな人が現れたり、なんとなく興味を持てなくなったり、応援をやめるきっかけはそこら中に転がっています。期限も限界も、いつだってやってくる可能性があります。追われる立場/追う立場が逆転することはないので、仕方のないことです。
アイドルがこうしたことに無自覚だとは思っていません。むしろ、ファンの人数や評価などは売上などにつながり、ひいては彼らの生活にもつながるわけですから、ファンの私たちが想像する以上に意識しているでしょう。
ただ、気持ちが移ろいをわかっていると示すこと、その上で「みんなの喜ぶ顔を見ていたいから、ぼくたちがみんなのことを守り続ける。いつまでも、いくつになってもみんなの王子でいる」とデビュー曲で歌うことは、勇気のいることだと思ったんです。
何年か前にシンメ論を書いたとき、文中で「アイドルは偶像としての自我を形成して、もう一人の自分を作る」と仮定したのですが、それってすごくしんどいことですよね。一人の人間としての自分とアイドルとしての自分。演じるためのエネルギーは大きいですし、どっちが本当かわからなくなることもあるんだろうなと。
だから、今アイドルでいる人はすごいし、アイドルを続けている人はもっとすごいし、今はアイドルじゃない、そしてこれからアイドルを辞める人だって、すごい。
キンプリがファンに対し「いつまでも、いくつになっても王子でいる」とファンなどに対して”永遠”を誓うことは、自分たちが”永遠に”アイドルでいるとこの先の人生を決定づけることでもあります。ファンは変わってしまうかもしれないけど、自分たちは変わらない。それを、彼らの名刺になるデビュー曲で歌っていることがすごいですし、決意の固さを感じさせます。
すでに彼らのファンである人も、これからファンになる人も幸せにしてくれる曲ですね。100万枚買いたい。
ゆるゆる考察が長くなってしまいましたが、キンプリの「シンデレラガール」は本当に最高の一曲です!こうしてブログを書いてみて、さらに好きな曲になりました。なおキンプリ担ではありませんが、「シンデレラガールが最高すぎる」という一心で、引用等も含め約1万字書いてしまいました。曲の持つ魔力が恐ろしい。
「シンデレラガール」は5月23日発売です!ぜひご購入を!!!!!!
1/136から1/15000へ――2018.3.26 SixTONES単独公演
横浜アリーナのセンター席から、1万5千ものペンライトの灯に囲まれ、バックステージで横一列に並んで歌うSixTONESの後ろ姿を見上げ、2015年のジャニーズ銀座(クリエ)*1を思い出していた。本編ではなく、当日券にまつわる出来事を、だ。
クリエには当日券制度がある。先行販売や一般販売でチケットを取れなかった人などが劇場前に並んで整理券を受け取り、抽選で10人前後が当日券を入手できるという仕組みだ。約600席と会場のキャパシティーが狭く事前にチケットを用意できない人も多いため、ファンからの需要は高い。
当日券制度は、特にファンの間で別の意味合いも持っている。それは、人気の度合いを測る指標になるということだ。並んだ人の数はそのまま勢いの数値として反映でき、平日にも人を集められれば「濃いファンが多い」などと受け止めることもできる。数で殴ろうといわんばかりに、躍起になっているファンも少なくはなかった。
かくいうわたしもその一人。自担がクリエCのくくりで現在のSixTONESメンバー(※京本くんは別仕事のため正式な出演者ではなかった)と出演した4日間7公演、全ての当日券並びに参加した。入りたいという強い気持ちがあった半面、義務感や焦燥感もあった。並びにくる人が他の期間に比べて少なかったからだ。
クリエCの前に公演を行ったクリエA(現king&princeメンバー出演)は1000人を、クリエG(ふぉ~ゆ~出演)は500人を超える数のファンを集めていた。
続くクリエCはというと、公演期間前半の平日公演は250人未満。136人のときもあった。日曜と祝日の公演期間後半は、グループ結成が発表されたことも手伝ったのか徐々に増えたものの、最終公演で498人。結局、一度も500人を超えることはなかった。
悔しかった。
もちろん、ファンの年齢層や諸々の都合などもあるから当日券並びの人数だけで判断することはできないし、全く人気がなかったとは思っていない。そもそも5月1日まではグループ結成が発表されていなかった。
けれど、自分の応援している子は、彼が所属しているグループは人気がない、ファンが少ないと言われているみたいで、どうしても悔しさは拭いきれなかった。もっと応援していこうと思った。
はずだったが、実際はその逆。いつしか、熱心に追うことをやめてしまった。翌年のクリエ、サマステは当選したので入ったものの、仕事の都合だったり思うところもあったりして、申し込みをしなくなった。発足したJr.情報局に、入会すらしていなかった。
雑誌も買わなくなり、SixTONESを見る機会といえばザ少年倶楽部くらい。自担を応援したい気持ちはあるもののなんとなく素直に見ることができず、グループから多少の距離を置くようになっていた。
小さな転機は昨年9月の少年たち。時間ができたので、軽い気持ちでチケットを譲ってもらった。そこで見た「JAPONICA STYLE」に、純粋に好感を持った。新しく、かっこよかった。素敵だった。自分の中で風向きが変わった感覚があった。
こうした心境の中、お誘いいただき入らせてもらったのが、先月26日に開催された横浜アリーナでのSixTONES単独公演だった。
結論から言えば、1年半ぶりに入った彼らの公演は自然とテンションが上がり、心から楽しむことができた。新曲「Jungle」から始まったなど挑戦的なセットリスト、テンポ良く進むMC、メンバーも観客も楽しくて仕方ないといわんばかりの、ポジティブな雰囲気。
その全てに、彼らの足跡を見ていた。
特に、バックステージで歌う6人の後ろ姿を見たときには、彼らのこれまでに思いを馳せざるを得なかった。1万を超える人が詰めかけ、彼らのパフォーマンスを待ちわび、彼らの歌声にペンライトを揺らし、彼らの一挙手一投足に歓声を上げている。熱狂の中心に、6人がいる。
3年間で彼らは、これだけのファンに求められ、ファンの熱量を引き出すまでに成長したんだ。パフォーマンスもファンとの関係性もグループの色も、丁寧に築き上げ塗り重ねてきたんだ。今、この瞬間は彼らの努力の賜物なんだ。
当日券の列に並んだ人数と会場に来た人数を比べるのは適当じゃないかもしれない。途中で道をはぐれた分際で、というためらいもある。でも、眼前に広がる光景はそんなものを全てどこかに押しやった。3年前のクリエで、なかなか伸びない当日券の列にがっかりし、暗に揶揄され、他期間との当日券並びの人数比較に焦ったことが嘘のような光景、わたしが1万7千人分の1人である事実を前に、ただただ感慨に耽ることしかできなかった。
活動期間の半分は遠巻きに見ていたから詳しくないが、結成してからここまでの道のりが順風満帆だったようには見えない。方向性を模索しただろうし、難しい状況にも直面したはず。厳しい声も届いていたんじゃないかと思う。でも、それらを飲み込み、咀嚼し消化した6人が堂々とパフォーマンスする姿に、迷いは見えなかった。たくましかった。
大きな花はまだ開いていない。彼らが抱く夢やファンの想い、世間の声などを肥料にして、さらに育っていくんだと思う。のびしろはまだある。だから、まだ花は開いていないと個人的には感じる。もっとも、何をもってして花開いたとするのか曖昧なのだが。
明日のことは誰にもわからない。大輪の花を咲かせるのか、そんな未来があるのかどうかも。けれど彼らは、余裕に見せかけて実は必死に、泥まみれになりながら花に水をやり、一生懸命に育て続けていくんだろう。
そんな姿を、今までよりも近い距離から見ていきたくなった。
(余談:結成当時、今になって思えばもがいていた彼らを見続けることができなかったのは、自分自身の余裕がなかったことにも起因しているかな、と思います……。笑 人の成長を追いかけるには、ある程度の余裕が必要なんだろうなと学んだ次第です。今のSixTONESは、見ていておもしろいと素直に思います。次の単独も行きたいなぁ)
*1:2015年4月下旬から6月初頭にかけて、日比谷のシアタークリエで開催。ジャニーズJr.がA~Jのグループに分かれ、各グループごとに3~10公演行った。コンサートの通称は会場名に由来。